手すりが便利

介護保険でいろいろなことをしてもらえると教えてもらい、やり方を教えてもらった。手すりをまずいちばんにつけてもらうように教えられ、申請やら手続きやらして、かなり早く家に手すりがついたときはうれしかった。その後追加工事などもすませて、我が家の居住空間は手すりだらけになった。もちろん、お風呂とトイレも快適になった。見栄えよりも住みやすいのがいちばんである。力強いお風呂の手すりをもてば、あのときのように風呂から出られなくて叫ぶこともない。

手すりがあると部屋の中をどっちを向いて歩くのもラクだし、手すりの棒を利用して体操ができる。爪先上げ、かかと上げ、四股踏みなどいろいろやっているが、頼りになる手すりである。わたしはこれはわたしのものやで、長いこと働いて介護保険料を払ってきたおかげやねんでと威張っている。(料金の1割が自己負担)

小さい手すりがあちこちにあるのも有難い、トイレのドアが便利になったし、ベッドから出て立ち上がるのもラク。相方はわたしが歩きやすいようにテーブルに支え棒をつけてうろっとならないよう、しっかり立てるようにしてくれた。

これでもうしばらくは生きていけるかな。生きていこうかなと思う今日このごろ笑

梅雨明けは早いとか

梅雨明けが待ち遠しいなんて呑気なことを書いている場合ではない。九州では大雨のせいで河川の氾濫や崩壊が起きており、亡くなった方も大勢いる。これから生活の立て直しをしなければいけない人々がたくさんいる。
命に別状なく大雨警報を聞いて洗濯の計画を変えるくらいのわたしの生活だ。呑気な婆さんだ。

大阪に大雨が降って河川が氾濫したらどうなるのかしら。すぐそばに木津川が流れていて橋がかかっている。想像以上の大雨が降ったらこれらの川や橋はどうなるのだろう。大阪市はどうなるのだろう。戦争の時はたくさんの女たちが流されていったという木津川。華やかな着物がたくさん流れていったと聞いた。

我が家が大阪大空襲で被災して一家9人が苦労したことを思い出す。わたしの生涯での災いはジフテリア、戦災、コロナの三つだと最近考えた。幼時のジフテリアはひどさを忘れられないが遠い過去。戦災は家族で乗り越えた。コロナは現在進行形である。どういう経過を辿るだろう。

手本は二宮金次郎(わたしの戦争体験記 91)

柴刈り 縄ない 草鞋をつくり
親の手を助け 弟を世話し
兄弟仲よく孝行つくす
手本は二宮金次郎

戦争中はどこの学校の校庭にも二宮金次郎の銅像があった。大きな柴の束を背負い、手には本を持って読みながら歩いている姿。
国民学校4年生のわたしは真似して本を読みながら道を歩き、すってんころりんと転んでひざをすりむいた。疎開した山梨県で通学中のこと。

大阪西区の西六国民学校にも二宮金次郎像と奉安殿が並んでいたのを覚えている。奉安殿には天皇陛下の写真と勅語が入れてあったように覚えている。
どうでもいいことを忘れないで覚えていたり、歌もうたえる。

仮病のトイレ(わたしの戦争体験記 90)

4月28日の日記【仮病(わたしの戦争体験記 88)】で、仮病をつかって学校をサボっていたことを書いた。布団をかぶって「お腹が痛い」「アタマが痛い」と変わりばんこで理由をつけたが、叔母をだますのに寝ているだけではすまない。トイレ問題があった。座敷の隅の障子をそおっと開けて廊下に出る。広い板敷で地面から80センチくらいの高さの廊下を地面に飛び降りて広い庭に出る。正面に出ると叔父さんが作業しているから側面に出て植え込みの中に入って葉っぱの陰でオシッコ。やれやれ、これで半日いけるとまたふとんにもどった。
春夏秋はいいが、冬は雪が積もっている。雪の庭に降りて雪の上にオシッコすると雪が黄色く染まった。きれいなもんだと眺めていたが、あとで叔母さんが見ていたっけ。なんにもいわれなかったが、母に葉書を出していた。

勉強しない。本ばかり読んでいる。家事を手伝おうとしない。ちゃんと挨拶ができない。あかんことばっかり書くものだから、母からわたし宛に叱責の葉書がきた。「オシッコはちゃんと便所に行きなさい」と書いてあってもねえ、働いている叔父さんの横をよう歩かん。でも行きたいものはしょうがない。堂々とはできないが、そおっとトイレに走った。

竹槍で抵抗(わたしの戦争体験記 89)

戦争も終わりに差し掛かった頃、わたしの大阪の家は爆撃にやられ、母と幼いのが2人山梨へ逃げてきた。新聞ラジオでは相変わらず勇ましい報道があるが、学校にはどこか諦めと悲壮感が漂っていた。
昼休みに校庭にいたら、女の先生が「明日の体育は山へ行って剣道しようかな。竹槍で最後までアメリカ兵に立ちむかう練習しないとね」といった。わたしは震え上がった。竹の刀を持って「えいやっ」と男子相手にやるなんて。女子相手でもあきません。わたしを見て先生は苦笑いしたが、目つきは笑ってなかった。
他に男先生がいたが誰もなにもいわない。わたしは「撃ちてし止まむ」という言葉を思い出して下を向いていた。

翌日、どんなことをさせられるのかドキドキしながら学校へ行ったら、全然体操のことも試合のことも誰も口にしなかった。あれっ、やらないのかとほっとした。いまもほっとしている。わたしのことだから、まともに竹刀をえいやっとやって自分が怪我したり笑。
もしかして、女先生は今になって剣道の練習することもないと上からいわれたのかもしれない。敗色濃い日本で、最後は竹槍で戦う練習なんてと校長先生が思ったのかも。大々的に「次の授業でやります」といっていたら話は別でやらないといけないが、どこか個人的な発言だったから受け流してよかったのかも。先生も教える相手がわたしのようなたよりない女子じゃかわいそうだ。

自粛の延長

土日というより連休の終わりという感じがする今日明日。新型コロナウイルス感染症について、【府民の皆様へのお願い】を書いておく。
「令和2年4月7日(火曜日)から5月6日(水曜日・振替休日)までの期間について、新型インフルエンザ等対策特別措置法に基づく「緊急事態宣言」が発せられました。府民の皆さまには、「外出の自粛」と「イベント開催の自粛」の要請に加え、4月14日(火曜日)から新たに「施設の使用制限」の要請等を実施します。これまで以上に、「3つの密(密閉・密集・密接)」を避け、「感染しない」「感染させない」ための行動をお願いします。」

以上のように出ていたが、延長お願いということで月末まで延びたんだっけ。
わたしは家にいるのが好きなので本を読んだり音楽聞いたりしているからいいけど、外へ出たい人はしんどいだろうな。新緑の気持ち良い季節だもんね。

ウイルスが相手だから期日を決めるのも延長するのも仕方ないけど、今回はなんかなあという感じがする。個人的には東急ハンズで買いたいものがある。まあ別に急がんけど。
それから騒ぎが収まったらデイケアに行きたい。膝の具合がちっともよくならないので、ストレッチのやりかたを教えてもらいたいので。その他、考えたらいろいろあるじゃん。

いつまで続くぬかるみぞ

タイトルは戦争中に口ずさんだ軍歌の一節だ。行軍の苦労を嘆く歌詞に惹かれてよく歌った。いまは普通の日常生活を送っていて戦地でもないしぬかるみもない。だけどコロナウイルスのせいでこの日常がいつ崩れるかわからない不安の中にいる。
できるだけ明るく楽しく暮らそうと思っているが、どこでひっくり返るかわからない。

姪の一人に戦争とコロナとどっちが怖いか聞かれたが、どっちも怖いよ。
コロナの先が見えないところが怖い。
さっきちらっとネットで聞いたが、戦争中の食糧買い出しの話をしていた。着物と食料品との交換の話だった。うちの母と姉の着物はみんな米や芋に変わった。ああいう時代になるという話だった。
わたしがいくら食べられる野草に詳しいからといって、ここらでは猫じゃらしくらいしか雑草は生えてないしなあ。

仮病(わたしの戦争体験記 88)

田舎は朝が早い。わたしが目を覚ますときはみんな起きていて、叔父叔母は蚕の餌にする桑の葉をもぎに畑に出ている。山盛りの籠を背負って戻ると蚕の待っている2階へ上がり一仕事。
それから叔母は朝ごはんの支度、叔父は畑仕事の準備で忙しい。ご飯のときに叔母はわたしを起こしに来る。たいていは起きていて顔を洗い膳についているが時々仮病で寝ている。「お腹が痛い」「頭が痛い」の二つを交互に使う。適当に「寝てなさい」が返事だが仮病を見抜いている。

母が幼い子を2人連れて大阪からきたので、座敷は母と子供3人の寝場所になっていた。その日もわたしはどちらかが痛いといって寝ていたのだが、叔母が仮病だといって母を責めている。仕方なしに起きて「今日は耳が痛い」といった。母はご飯が済んだら医者へ行こうといい支度をはじめた。1時間半くらい歩くと町で、耳の医者があるという。仕方なくついていったら医院の前で止まって「ほら医者へ来た」といい引き返した。お腹は減るし足は疲れるし。
負けず嫌いの母は、娘が嘘をついているのを知っていてうまく収めたのだとわたしは思い知った。

その後は近所の農家の納屋を借りて母とこども3人は独立した。こうなると仮病は使えない。母の手先となって家事の手伝い、母が近所の農家で仕事の手伝いをするとその手伝いといままでよりも忙しくなった。
堤防に生えている大きな雑草が枯れる秋には切り取ってきて焚きつけ用に積み上げた。春は食べられる野草を摘んで食べた。
「変な子だ」といわれたが、吉屋信子と中原淳一にならって可愛い野の花を摘むのを忘れなかった。
仮病はそれ以来使わなくなった。母がうるさくて仮病になっている暇もなかった。本は大阪から父が送ってくれたからたくさん読んでいた。

薪でご飯を炊いていた(わたしの戦争体験記 87)

いまや笑い話であるけれど、戦後から何年かわが家は薪でご飯を炊いていた。もちろん近所中がそうだった。煙突のついたかまどがあって、新聞紙を丸めて火をつけ細く割った薪を燃やす。そのあとは太い薪をずんずん燃やしてご飯を炊く。
かまどの他に鉄のガスコンロが一つ、七輪が一つあって、それで9人の3食をまかなう。味噌汁やカレーが大鍋で出てきてた。
親が留守の時はお腹が空いたらフライパンを七輪にのせて「おやき」を焼いた。小麦粉を水でとき砂糖があれば上等だった。

まあ、いまも同じようなものか。ガスレンジとオーブントースターがあるから一応文化的笑。電子レンジは使いません。食器洗い機がなくてお湯を流して洗っている。

台所の水道がうまく床上までこなかったので入り口横のかめに溜まるようにし、ひしゃくで汲み出していた。父がお風呂が好きで大きなタライを手に入れてきたので、場所を作ってタライで湯あみした。工夫したらなんでもできると自慢していた父と行水の後始末に追われる母。

イタチが走る昔も今も(わたしの戦争体験記 86)

「ネコがネズミとってイタチが笑う、ぱちぱち」子供たちがはやしている。なんか引き込まれる声にこっちもそっと真似してはやしていた。戦争中に夜の新町を兄たちと歩いていると、イタチがすごい勢いで前を横切っていった。「イタチを捕まえたらいかんぞ、屁が臭いぞ、最後っぺが」と父にいわれていた。いわれなくても、あんなスピードで走っているのをどうしようもない。

「うちの台所にも住んでるよ」と母がいう。古い木造の二階建ての家で北側に台所があり、水捌けが悪かった。アメリカ軍の空襲でやられて「あの台所から解放されたのはよかった」と母がいっていた。昔は田舎から女中として新町に住み込みで働きにきた女性たちがいて、古いつくりの台所で働いた。北向きの寒い台所を使うことになった母親は辛かったろうが、あの台所には新町の女中さんの気持ちが残っていたんやな。母は足元をイタチが走るので高下駄を履いて仕事していた。

いまも元新町演舞場の横の溝からイタチが飛び出し道を横切って全速力で走っていく。近所の地主さんにイタチを見たといったら「イタチようけおりますで。よう走っとる」とのことだった。戦争中に見た子らの子孫かな。