コロナの日々

今日も朝起きるなりネットでコロナニュースを読んだ。全国と大阪府を読んでからユーチューブでいろんなひとたちの意見を聞く。聞いているうちに落ち着いてきて安心する。その合間に、お風呂に入ってマッサージをして、洗濯機を動かして今日の第一食目のご飯になる。

今日はコロナさえなければゴールデンウィークの最初の日である。暖かく柔らかい日差しが瑞々しい。そんなことをふと思ったが、ふと思っただけでコロナの日々は変わりようがない。毎日、感染者や死者の数が加わっていくニュースを聞いて過ごす。
いつ自分の番になるか、やっぱり戦々恐々という気持ち。毎日お日さん浴びて三密に気をつけよう。

いつかコロナの日々が終わって、思い出話になることだろう。いま太平洋戦争の思い出を書いているように、コロナの思い出を書く時代がくるだろう。そう思いつつ工夫してコロナを避けよう。

堀江、新町 いまむかし(わたしの戦争体験記 84)

「ちょっと野菜を買いに行ってくるわ」と相方が午後出かけて行った。知り合いの堀江のレストランがコロナ騒動で休んでいて、代わりに野菜や食品を売っている。「売り上げに協力せんとなあ」とズッキーニとか買って帰った。明日はうまいパスタが食べられる。

我が家は新町にあったが堀江は4年生で疎開するまでわたしの遊び場だった。壽(ひさ)ちゃんという友達の家は芸者屋だった。そのおうちで人形ごっこなんかしてよく遊んだ。わたしは疎開してしまったが、ひさちゃんはあれからどうしたろう。

のちのち75年後、市立図書館の庭にある「木村蒹葭堂」の碑を知り、図書館で催された蒹葭堂展を見て、蒹葭堂作品のカタログを買い、図書館で借りて中村真一郎の大きな本『木村蒹葭堂のサロン』を読んだ。
江戸時代、木村蒹葭堂を訪ねてきたひとは、蒹葭堂が留守だと新町の遊郭へ遊びに行ってその夜を過ごしたそうだ。蒹葭堂はすごい数の友人がいて、ものすごい博学の人である。いま生きていたらTwitterやFacebookで大活躍だろうな。

緊急事態宣言が出る

なんだかよくわからんけど、明日7日緊急事態宣言が出る。外へ出ないようにして生活するのなら毎日家にいるから大丈夫。静かに暮らす。密集、密着、密閉の「三つの密」を避ける「三密回避」も大丈夫。おとなしくしてます。

これで今日の日記は終わり、では色気ないなあ。
なんかことがあって張り切るのは好きで、震災ボランティアに打ち込んだり、「なんたら反対デモ」に行くのも好き。

今回は反対になにもしない非常事態である。
いや違う、相手は手強い新型コロナウイルスだ。わたしのしなければいけないことは、じっと耐えて「三密回避」である。

コロナの日々を書き続ける

おとといはあまりにも平凡な日だったのでブログは休もうと思って、ほんまに休んでしまった。書くネタがないからたまに休もうぜってことなんだけど、1人からはコメント、1人からはメールをもらって両手を引っ張りあげてもらった感じ。
こんな珍しい時代に生きているのに寝てしまってはいかん。いかにこのしんどい時代を生き抜いているか書き残さなあかん。いまはまだ生き抜いているとはいえないし、生き抜いていけるかもわからん。そんな時代のその過程を書いておこうと改めて思う。

午後にケアマネさんが来てくれた。わたしがデイケアに行くための書類を書いたのと医師に書いてもらった康診断書書をとりに来てくれたのだ。約束時間をずいぶん越えて現れた彼女は「コロナ関連の相談事が多くてどんどん時間がとられる」とぼやいていた。
デイケアは開いているそうだが、わたしはコロナが落ち着くまで待とうと思う。せっかくリハビリに励もうと思ったのがまた伸びてしまうが、高齢者につきイノチを大切にしようと思う。家でじっとしているのは得意だし。

部屋につける手すりのOK書類が区役所からまだきてない。業者さんはOKがきたらすぐに取り付けてくれるそうだ。手すりで支えて体操したいので早く取り付けてほしいなあ。

毎日、新型コロナウィルス関連のニュースを追いかけながら過ごしています。

灯火管制(わたしの戦争体験記 83)

21日に書いた「記憶の夜店」から記憶をたぐっていって「ラヂオ焼」にいたった。記憶の中の夜店は「戸屋町の夜店」だった。阿波座から四ツ橋へんまで連なる長い夜店だったという。父親と兄たちといっしょに夜店をぶらつき「ラヂオ焼」はテントを見るだけで食べさせてもらえなかった。四ツ橋から住まいに帰る道はびっしり民家が建っているが、みんな灯火管制によって灯りは少しももれてなかった。薄暗い街並みを黙々と歩く一家。話す声も抑えたヒソヒソ声でたよりない。それでも兄たちは落語の物真似をして笑わすのだった。

家に帰っても電灯は笠にかけた黒い布におおわれているから、立って本を電灯の下に広げて読むのだった。兄が場所をとってしまうので、わたしは引き下がっていた。「あんたはおてんとさんが出ているときに読みや」と母がいうし。

夏は戸を開け放してすだれやのれんを下げているが、灯りは防げても声がもれるのが難点だった。とにかく子沢山なので、灯りも声も押し殺さねばならない。どちらも漏れると隣組の会長さんから苦情が来る。ひっそりと、ひっそりと暮らしていた。それにうちは子供が7人もいるのにひとりも戦争に行ってないので肩身が狭い。姉たちは女だから免れ、兄たちは2年ほど年齢が低いので免れていた。

コロナと戦争 どっちが怖い?

昨夜は姪と電話でいろいろ話して気分がすっと明るくなった。姪のほうも明るくなってればいいな。話の内容は明るいものではないが、言葉を交わして笑いあって気分が晴れた。

コロナ怖いの話の中に「おばちゃんの長い人生で怖かったのは戦争?それともコロナ?」というのがあった。「ちょっと比べられへんけど、そりゃ太平洋戦争は大変やったで。家は丸ごとアメリカの爆撃で焼けたし、知り合いは死ぬし、食べるものはないし・・・」「ふん、おかあちゃんからよう買い出しの話を聞いたわ」
彼女の母、つまりわたしの姉は母といっしょによくサツマイモの買い出しに出かけていた。少し年下のわたしは買い出しに行くのは免れて食べるほうだった。
疎開から帰って住んだところはちょっと田舎だったので、イモを背負ってくる代わりに、散歩しながら道端の草を抜いて帰ったりした。わたしはタンポポやセリなど見つけるのが早いので「歩く植物図鑑」といわれたものだ。

コロナと戦争どっちが怖いか。コロナは進行中である。比べるのは終わってからだ。

記憶の夜店(わたしの戦争体験記 82)

子供のときの思い出に「夜店」がある。ずっとその夜店はどこだったか考えていたが思いつかなかった。「三国」だと父母と姉2人と兄2人とで風呂屋に行ってそれぞれと帰りに夜店に寄ったような気がしていた。でもどうも違うのだ。三国の風呂屋は2軒あって、待ち合わせて風呂から出ると帰り道はキャンデーを舐めたりしゃべったりしながら30分歩くのだった。それほど文化はてる地域が疎開から戻ったわたしの我が家だった。
三国の夜店はよく覚えている。三国商店街が駅前からすぐにあって、商店が閉まるとその前に屋台が並んだ。古本屋が1軒あってミステリ誌『宝石』を月遅れで毎月買っていた。風呂屋の帰りによく寄った。

歩きながら姉たちと兄たちと親たちの話を聞いて、彼らの買った本や雑誌を読んで、わたしもいっぱしのことをいうようになった。戦後文化を身いっぱい浴びていた。

いつも「夜店」という言葉で思い出すのは「三国」だけで、なにか違うなーという気がしていた。薄暗い夜道に浮かんだ緑色のテント生地の「焼ヲジラ」という文字。「ラジヲ焼」が右からになっていた。あれはどこだ。ラジヲ焼を食べさせてもらったことはない。その文字を眺めていただけである。その文字がいまもわたしの脳裏にあってぼーっと浮かんでいるだけである。

それが大阪市西区役所発行『西区むかしの物語』にあったのを先日見つけて晴々した。「焼ヲジラ」の写真があったらもっと喜んだと思うけど(笑)。

昨夜はここまで書いてアップした。ちょっと書き残しがあったのと、間違いがあったので訂正する。
●書き残し
夜店の名前は「戸屋町の夜店」。徳川時代からという古い町だそうだ。明治になってから阿波座上通りと改名されたが、夜店だけに「戸屋町」と名前が残ったそうである。
●訂正
「焼ヲジラ」ではなく「焼オヂラ」と読者の方が書いておられた。こっちが正しい。

大阪―兵庫間「往来自粛を」 3連休、大阪府知事ら要請

夕方7時のNHKラジオニュースの第一声で『大阪―兵庫間「往来自粛を」 3連休、大阪府知事ら要請』といってた。おどろいたというか、ここまできたかという気持ちである。聞いているときは笑ったが。まあ兵庫県へ行く用事はないし、知り合いもいないし、静かにしてるけど。

昔阪急神戸線の神崎川に住んでいたことがあって、隣り駅は園田で兵庫県だった。歩いて行ける身近な場所だったなと思い出した。あのときだったら近所の人たちとひと騒ぎしたかも。おしゃべり好きな下町のおばちゃんばかりだったから。

コロナ騒ぎがすごいことになってきて、戦争中を思い出した。
太平洋戦争中のわたしが子供の時、わずかなお米を水増しして炊いて「楠公炊き」と称した。新聞や雑誌に作り方がのっていたのを読んで各家庭で炊いた。
これから米不足になることがあれば、テレビの料理番組で「楠公炊き」をやりそう。「レンジでチンして楠公炊き」なんちゃって。

新町花街九軒の桜堤(わたしの戦争体験記 81)

大阪市西区役所発行『西区むかしの物語』を久しぶりに本棚から出してぱらぱら見ていたら、「新町花街九軒の桜堤」とタイトルがついた見知った風景写真があった。九軒(くけんと読む)は新撰組の芹沢鴨の話で知られたところだ。その話はこの本に書いてあるが、今日は別なことを書く。

広い通りが真ん中を通っていて西を向いて南側は桜堤、北側は建物がある。今日このページを開いて「あっ!」っと声が出た。写真の真ん中は道路がまっすぐにある。この道路の真ん中に立ったら、左右と正面が見える。その景色は写真も今も同じなのだ。
子供の時にここいらを通ったことがあったかな。「あっちのほうには行くな」といわれていたような気がする。もっぱら遊びは四ツ橋、阿弥陀池、長堀川にかかる橋くらいだった。
いま道の南側は昔の桜堤の面影を残して桜の木がたくさんあり、花見シーズンはずいぶん賑わう。北側はオリックス劇場(以前は厚生年金会館大ホールと中ホールが並んでいた)である。そこが新町遊郭の一角だったのだろうか。
いまから40年前にいまの住まいを見つけて引っ越した。それ以来の新町ぐらしなのに、いままで「九軒」を忘れていた。たしか公園の植え込みに碑が建っていたはず。もう一度確かめに行かねば。

『西区むかしの物語』はたしか区役所に用事で行った時にタダでもらったものだ。なかなかおもしろくてためになる。平成12年発行。

大阪大空襲から75年目の3月13日(わたしの戦争体験記 80)

元気とはよういわんがまだ生きてます。85歳だから75年前は10歳だったのね。その前の年の夏に学童疎開で山梨県に疎開してしんどい毎日を過ごしていた。大阪大空襲でうちが焼けてしまったなんて思いもせず、雪解けの季節になっていた。下駄の歯の間に雪や泥が詰まって歩きにくかったなあ。自分で縫った鼻緒をつけた高下駄だからなおさらだ。

その日は3月だから雪解けがはじまった畑や道はどろどろしていた。なぜか道路にいた子供たちが「向こうから人が歩いてくるじゃん、だれづら」と騒ぎ出した。「乞食づら」という者もおり、わたしも「乞食け〜」といいながら歩いてくる人らを眺めた。なんと!その乞食と思ったのは母と姉2人と弟と妹だった。5人は手をつないで道いっぱいに歩いていた。

3月13日のアメリカ軍空襲から命からがら逃げて、とにかく母の実家へ汽車を乗り継いでやってきた。「家は焼けてもうないよ」「えらい目におうたわ」「生きているだけありがたい」母と姉たちは口々に話した。
そのとき、わたしがいったという言葉「うちが焼けてよかった」はのちのちまで母が笑い話にしていた。親戚とはいえ他人の家にいるのはしんどかったんやな。