戦中を支えてくれた本たち(わたしの戦争体験記 65)

わたしは国民学校(小学校)に入学する前から本を読んでいた。読めない文字は抜かしてストーリーを追っていけばなんとかわかった。翻訳物で『小公女』『イエローエンペラー』、少女小説は吉屋信子の『紅雀』と川端康成の『乙女の港』が宝物だった。田舎のわら屋根の下でこれらの本を抱いて眠ったものだ。そらでいえるほど何度も読んだ。
その他に大人の本もあった。これは父親が戦災から逃げたときに必要と送った荷物の中にあった。思い出せるのは徳富健次郎(蘆花)の『みみずのたはこと』とE・C・ベントリー『トレント最後の事件』だ。

先日本の整理をしていたら『みみずのたはこと』上下の文庫本が出てきた。だいぶ古びているが読めるので、むかし次兄が読みたがっていたのを思い出して電話したら、昔の情熱はなかったがくれというので送ってやった。届いたともいってこないが、読んだかしら。

ここまで書いてわたしも『みみずのたはこと』を読みたくなった。ものを減らそうとしているときに新しく買うのもなあ・・・そうそうこれだと困ったときの「青空文庫」で探してみたらちゃんと入っていた。さっそく読み出したら、のっけからいかに自分が田舎者かという話で思わず笑ってしまった。これで当分楽しめる。この本を読んで戦中戦後の苦しい時代を疎開少女が乗り切ったんだと思うとせつないものがある。

爆睡の予定が・・・れいわ新選組の動画

昨夜は夜中過ぎてから爆睡の予定で本を片付けて台所も片付けた。最後にミクシィをちょっとのぞいてからツイッターにいったら、「れいわ新選組」が東京秋葉原で街頭演説会をやっている動画があった。野次馬根性で先日から山本太郎さんの動きをネットで追っていたので、これを見なくちゃと座り込んだ。いやー、面白かった。政治問題を面白いといったら悪いが、ほんまにメンバーそれぞれの個性があふれていてよかった。

まず、いまの日本の現状を代表しているといっていい10人を集めたことにびっくりした。そしてその10人の個性に驚いた。そして立候補したみなさんが、即、想いを語り、演説したのにもびっくりだった。

最後まで見たら結局3時過ぎてしまい、寝つきはよくなかったけど、眠ってしまえばこっちのもの、明け方まで爆睡だった。
今日は目が疲れているが、なんとか本を読みネットも読んでいる。

桑の実に再会(わたしの戦争体験記 64)

わたしは桑の実に過剰な愛情を持っている。第二次大戦中に大阪から山梨県へ疎開したのは国民学校4年生の夏休み中で、さっそく宿題を出された。桑の枝の皮を剥いて乾かして束ねて新学期の初日に持ってこいというのだ。
居候先の叔母の家では蚕を飼っており、毎朝毎晩桑の葉をもいでは蚕に食べさせていた。わたしが桑畑で見つけたのが桑の実だった。真っ赤な実を口に含むと甘くてうまくておどろいた。それ以来実のなった桑の木を見つけるとちぎって食べていた。これは誰にも怒られなかったからうれしい甘味補充であった。
2年後に大阪へもどってからは桑の実の思い出だけが増殖していった。
大人になってから長野県の人が桑の実ジャムを作ったのが手に入って喜んだが、甘すぎてどうもあの野生の味とは違う。そのまま思い出だけを残したままで、いままで過ぎた。

今日夫が無農薬野菜のライオンファームへ買い物に行ったら、奥さんへと紫陽花の枝を数本くれた。ガラス瓶に入れたら涼しげでいい感じ。喜んでいたら「これはどう?」と野菜の袋から小さな包みを取り出した。「ありゃあ、これは桑の実じゃん」わたしの桑の実好きを覚えていて買ってきてくれたのだ。200円だったって。
見るのも食べるのも75年ぶりである。国民学校4年生の夏に疎開先の山梨県で食べて、翌年、翌々年も食べて、それ以来だ。
ライオンファームさんは出かける前に近所の桑の木から実をもいで出発したそうだ。採れたてのほやほやを車で1時間ほどかけて運んでくれた。

味は、う〜ん、もっと甘かったような気がするが、戦争中のなにもない時に枝から採って食べたのだからさぞ甘かったろう。
それにしても、いつも桑の実のおいしかったこと、桑の実で救われたことを話しているが、なんとかしてまた食べようとまで思わなんだ。
こんなもんかなあ、あまりうまくはないなあ。でも「いつかは」とは思っていたなあと納得している。

ツイッターにうれしそうに書いたら「最近はマルベリーで、たまに見かけます。」と教えてくれたSさん、ありがとうございます。桑の実をマルベリーというのも知らなかったわたし(笑)。

今回は「わたしの戦争体験記」の第1回【ブラックベリーと桑の実(わたしの戦争体験記 1】(2018/7/30)に続くものとして読んでください。

月月火水木金金(わたしの戦争体験記 63)

戦時中のいつのころか日曜日と土曜日がなくなって、日曜日は月曜日と同じに働いたり勉強したり、土曜日は金曜日と同じく働いたり勉強したりする日になった。大阪にいるときはどうだったかなあ。1年生のときは土曜日は半ドンだったように思うが。山梨県ではどうだったろう。日曜日は学校を休んでいたような気がする。休みといっても畑仕事の手伝いやらされたから、やっぱり「月月火水木金金」だったなあ。

「ヤフー知恵袋」(ベストアンサーに選ばれた回答)からの引用です。
【もとは大日本帝国海軍で用いられたのが始まりである。海軍は日露戦争勝利後も、「勝って兜の緒を締めよ」とばかりに猛訓練していたが、ワシントン・ロンドンの各軍縮条約で艦船の数的不利をうけて、更に休日返上で猛訓練を行っており、ある海軍士官が「これでは、まるで月月火水木金金じゃないか」とふと同僚に漏らした言葉が、やがて海軍中に広まったものとされ、このニュアンスからして「月月火水木金金」は海軍精神の発露というより、むしろ猛訓練に辟易していた海軍将兵らが自嘲気味に使ったのが始まりかと思われる。
太平洋戦争中には、勤務礼賛の意味で、国民の間で広く使われた。】
引用させていただきました。ありがとうございます。勉強になりました。

わたしの歌える歌詞は以下である。

朝だ 夜明けだ うしおのいぶき〜
う〜んと吸い込む あかがね色の
胸に◯◯のみなぎる誇り
海の男だ 艦隊勤務
月月火水木金金

ちょっと忘れたとこあるけどこんな歌詞で調子が良かった。何十年も前の歌をよく覚えているもんだ。
しかし、第二次世界大戦中って標語や歌がえらく流通してた。しょっちゅうラジオから流れていたし、道路とか学校とか拡声器でがなり立てていたから。

千人針(せんにんばり)(わたしの戦争体験記 62)

千人針(せんにんばり)。思い出すのもいやな言葉である。いやなのは前回書いた「パーマネントはやめましょう」も同じで、忘れていたいいやな記憶である。戦争中のことでいい思い出はないから、書こうと思いついたときからわかっていたが。

大阪西区の西六(さいろく)小学校に通っていたとき、たまに映画や紙芝居や講演があった。映画は新しい建物の講堂で生徒全員、紙芝居や講演は木造の各教室で行われた。紙芝居は銃後の民(前線に行かずに後方にいる女子や子供のこと)のわたしたちを啓蒙するためのものだった。
ストーリーがあって、銃後の妻が鎌で手を切ったりしてあっとのけぞると、その同じ時間に戦地で夫が戦死したのが後でわかる。
映画では飛行隊ものが多かったような気がする。勇ましくかっこよく出撃するシーンを主題歌とともによく覚えている。
ようするに、わたしら銃後の民は兵隊さんの苦労をありがたく思い、支えていかなければならないということだった。千人針もその一環だった。

千人針というのは1メートルくらいの長さに折った晒し木綿に赤い糸で結び目をつけたもの。何センチおきかというと・・・左右2センチくらいかな。とにかく1000人から針目を作ってもらうわけだ。市電の停車場とか盛り場の曲がり角とかで女性が2、3人立って、通る人に頭を下げていた。
何度か「千人針」をやってきたと姉たちが仕事から帰ってきて報告してた。会社の人から預かって家族全員が刺したこともあった。「これで弾がそれるのかねえ」というようなことは誰もいわなかった。

パーマネントに火がついて(わたしの戦争体験記 61)

この歌知っている人いるだろうか。
これ、歌なのか、なんなのか、なんかの替え歌か。
こんな歌詞をよくぞ思い出したと自分を褒めている。頭のどこかに書庫があるみたい。続きはあるのかどうか知らないが、わたしの書庫にはない。

パーマネントに火がついて
見る見るうちに禿あたま
禿のあたまに毛が3本
ああ恥ずかしや恥ずかしや
パーマネントはやめましょう

もしかして知っているのはわたしだけかと思って(笑)、検索したらいろいろ出てきたのでびっくりした。

髪を縮らせているのが非国民ということで道を歩いていると知らない人に注意されたりする。うちでは長女と次女がおしゃれしたい年頃だった。髪の先をくるっとしたいが、まっすぐでないとダメらしくて文句をいっていた。火鉢に髪用アイロンを突っ込んで熱くして髪を巻いてカールをつける。そのカールが愛おしくてそっと触ってみる。他愛ないそんな女子の楽しみも道を歩いていて見つかるとおこられたんだとか。

家の中では次兄が学校で覚えてきて歌っていたような気がする。「やめとき」と母が叱るが、実はその歌で娘2人が髪をカールしないようにとなればと思っていたかもしれない。よその人にいわれることに敏感になっていたから。
疎開前だから3年生か4年の1学期だったかな。

みどりの黒髪にシラミ(わたしの戦争体験記 60)

田舎の家の井戸(ポンプで汲み上げ式になっているが、つまると釣瓶で汲みあげる式)端で、祖母と近所のおばあちゃんたちが文字通り井戸端会議をしていた。なぜかわたしが側にいてちょこんと座っていた。ばあちゃんたちは遠慮なくものをいう。「こんな子でも十八、十九になれば色気がつくヅラか」「顔はイナでも髪がイイヅラ、みどりの黒髪ジャン」。顔は悪いけど髪はみどりの黒髪という蔑み語りを渋い顔をして聞いていたら、うちのおばあちゃんは「この髪で島田を結ったらいいヅラよ」と慰めてくれた。この戦争のもとでそんなことはありえないといおうと思ったがやめた。おばあちゃんたちのいま現在の好き勝手しゃべる娯楽をうばってはいかん。

その黒髪にシラミがくっついて頭皮を噛んだから痒くて痒くて・・・。暖かくなると頭のてっぺんから降りてきて首筋を這い降りる。後ろの席に座ってる子が「くみちゃん、シラミが降りてきた」とつぶやく。「そうけ」と答えて手を後ろにまわしぷつんとシラミをつぶす。
日当たりの良い日に梳き櫛で髪を深くとかし、櫛につかまったシラミを親指の爪で殺していく。一種の快楽だったなあ。

お蚕さんから羽織まで(わたしの戦争体験記 59)

田舎で暮らすようになって驚いたのは一家そろって早朝から働き出すことだった。明るくなるより早く起きて蚕用の桑の葉を採りに出ていく。桑の葉をもいで背負いかごにびっしり入れ、かついでもどってくると自分たちの朝食よりもお蚕さんの朝ごはん。わたしが目を覚ますころはお蚕さんたちはざわざわ音を立てて朝食中。

人間はそれから朝食。わたしが行った頃はまだ白いご飯と味噌汁と漬物だった。わたしは漬物が嫌いだったから食べなかったが、たまに海苔を出してくれた。初めのうちだけだったが。

そうこうしているうちに蚕が繭になった。仲買人のような人が来て今年の蚕はどうだとか、よそはどうとか話していたから、それが商談だったのだろう、繭の大方を引き取っていった。残したのだか残ったのだか、家用のが大きなかごに入れてあった。
よくわからないが、繭を煮て糸を採る仕事を祖母が囲炉裏の前で根気よくしていた。繭から細い糸を引っ張り出す。糸をとったら染めである。庭先に染めた糸を広げて縦糸とし、次に横糸用の糸を作った。
できた糸を布にするのが叔母さんの仕事で、朝、昼、夜と長時間機織り機に向かっていた。日がな一日、縦糸をしっかり据えて横糸を右から左へ、左から右へと絡めていくのをわたしは見ていた。わたしにはできるはずない。
国民学校の6年までは叔母さんにそういう建設的な仕事をせよとはいわれなかったから命拾いした。
仕事になったのは「麦踏み」かなあ。でも体が軽いから麦踏みの効果があったかどうか。必死で麦を踏んだんだけど、跳ね返されていたりして。

叔母が織った布を母が縫った羽織がここにある。戦争が終わってからわたしがもらって大切においてあった。絹という触感がない重い荒っぽい絹である。次の冬はセーターの上に羽織って部屋着にするべし。

海行かば 水漬く屍(みづくかばね)(わたしの戦争体験記 58)

新しい元号(令和)発表のときに『万葉集』についての論評をツイッターで知ってちょっと興味を持った。今日図書館で元の意見が出ている本を相方が借りてきたのでその章だけ読んでみた。

東京大学教養学部編『知のフィールドガイド 分断された時代を生きる』(白水社)
III 現代にこだまする歴史
『万葉集』はこれまでどう読まれてきたか、これからどう読まれていくだろうか 品田悦一

難しそうと思ったがそうでもなかった。
わたしは『万葉集』は岩波新書の斎藤茂吉『万葉秀歌』しか読んだことがない。それも大昔に買ってざっと読んだだけだ。好きな歌もあったが忘れてしまった。だから品田さんの文章を読んで、「ああそうなのか」と思うところが多かった。
最後のほうに「うみ行かば」のことが書いてあってびっくりした。元は大伴家持の歌だって。

海行かば 水漬く屍(みづくかばね)
山行かば 草生す屍(むすかばね)
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

山梨の学校で『君が代』の次に歌わされた歌だ。いまでも歌える。兵隊さんのみならず、子供のわたしらまで死ぬことを強制されてるみたいで好きでなかった。本書で品田さんに教えられて子供のときの嫌悪感がわかった。
引用「・・・勇ましい歌は、『万葉集』全体でもごく僅かしかないのにそういう例外的な歌をことさら取り上げ、戦争遂行に利用するという恣意的かつ一面的な扱いがまかり通っていたのである。」

桑の皮の国民服と桑の葉のお茶(わたしの戦争体験記 57)

桑の実ほど美味しいものはなかったといまも思うほどに、疎開した山梨県の桑の実は美味しかった。田舎の子が食べているのをあんまり見たことがなくて、わたしは一人でむさぼり食べていたが、みんな桑の実よりうまい果物が自分の家の庭にはあったんだろう。むさぼっているところをじっと見つめられた記憶はない。桑畑がいっぱいある上に畑の外側や道に勝手に生えている木があって、たいていの木に実がなっていた。

疎開した4年生の夏休みの宿題に桑の枝の皮をむいて干したのをもってこいというのがあった。わたしの初登校の日、みんなリヤカーや自転車で運んだり、担いて運んだりした。わたしはみんなの10分の1くらいの1束を持って行った。この1束だって叔父さんに手伝ってもらってやっとできたもの。

桑の皮むきは桑の枝の皮をむいたのを乾燥し繊維にして布地にし服を作るという国家の計画だった。その夏の国民学校生徒はいっせいに桑の皮を供出した。次に桑の葉を乾してお茶の葉代わりにせよと命令がきた。生徒全員が桑畑で葉を採集してムシロに広げて乾した。こちらは簡単だったけどお茶はどうにもこうにもまずかった。桑茶といって薬用になるくらいだから乾し方にきっと工夫があるはずだけど、ムシロで乾しただけだからうまくない。

忘れた頃に桑の皮の服が学校に届けられた。ごわごわして気持ちわるかった。当時、木綿の代わりに化学繊維のスフが使われるようになっていたが、スフよりずっとごわごわしてたのが桑の皮の繊維だった。