奉天 3(わたしの戦争体験記 72)

いままで何度か思い出しつつ疎開のことを書いてきた。
記憶から小刻みに出てきたのだが、今日はもうちょっと記憶を掘り出し、すこしまとまったことを書こうと思う。
太平洋戦争がはじまったのは昭和16年12月8日でわたしは国民学校(この年から小学校が国民学校になった)の1年生だった。2年、3年は都会の子供としてのんびりと育ったが、それでも授業前に勅語を音読し「君が代」を歌うように強制されていった。
町内の青年たちが戦地に赴くのを見送り、遠い戦地から遺骨で還るのを出迎えにいった。

学校が疎開を勧めだしたのは4年生になったときだ。先生から子供を預けられる人はこの用紙に書いて届けるようにと紙が配られた。わたしは「うちにおいで」と前からいっていて、粉浜に移転したさかえちゃんのところに行きたかったが、知り合いはダメ、親戚をと先生がいって、母は「久美子一人預かってくれと妹に頼むか」ってことで手紙を出した。「お国のためなら」と承諾してもらったので、わたし一人が叔母の家(母の実家)に預けられることになった。のちに次兄が甲府の叔父の家に世話になった。甲府は二回爆撃があり次兄は2回戦火の中を逃げ惑うことになった。

4年生の1学期が終わるとすぐに山梨県へ出発した。家が焼けるだろうことは無言の承諾があったような気がする。すでに入り口を板で打ち付けた家もあった。級友とは疎開についてあまり話さなかったように思う。それぞれ黙って消えていった。

大阪を出て行く日は、母とハタチくらいの長女と一年生の三男と赤ん坊の四女といっしょに家を出た。母と姉は食料買出しも兼ねていた。姉たちの晴れ着を米や芋と換えてもらう。
市電で湊町へ行き、関西線で名古屋へ。夜の8時ごろだったか名古屋に着いて中央線に乗り換えて塩尻へ。わたしは姉が縫ってくれたピンクのワンピースを着て、手に『奉天』の本を持って汽車に乗っていた。昼も夜もその本を読んでいた。表紙に処刑されている士官の姿が描いてあった。
翌朝、たしか新宿行きに乗り換えて日下部下車。1時間ほど歩いて叔母の家にたどりついた。

母の姉が東京から来ていて口やかましく行儀よくするように説教する。叔母(母のきょうだいの5女)は東京の女学校を出たので田舎にいてもしゃんとしていて、大阪弁を馬鹿にしていて付き合いにくかった。自分の子供を中心にしていてわたしは無視された存在だった。久美子は全然勉強しないと母に度々手紙を出し、それを読んだ母はわたしに「勉強しなさい」とハガキを寄越すのだった。

『奉天』の本は何度か読んだと思うがはっきり理解できなかった。そして父がなにを思ってその本をもたせてくれたのかわからずじまいでいまに至る。

先日から村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を読んでいて、ノモンハンについて学んでいるところだ。日本軍について少し知り、奉天で処刑された日本兵に思いを馳せている。村上春樹の書いている非道な戦争の記述が胸につきささる。

戦時中もおしゃれにこだわり(わたしの戦争体験記 71)

最近このあたり、新町〜堀江に高級マンションや高層マンションがたくさん建って子供人口も増えている。わたしが近くの医院、整体院、郵便局なんかに行くとき、学校帰りの子供たち、母と子の二人連れや乳母車や自転車の三人連れとよく出会う。この辺の子たちは垢抜けした服装で持ち物もかっこよくつい見惚れてしまう。

子供達を見ていると、あっそうやあたしもこのへんの道を歩いて通学してたんやなあと懐かしくなる。わたしの行った西六(さいろく)小学校は戦災で焼けて無くなってしまったが、堀江小学校と明治小学校は残っていて発展し生徒数も増えている。いまの子らが歩いている道を戦争前から戦争中のわたしは歩いていたのだ。

いまの子もおしゃれだが、私の時代の子らもおしゃれだった。歯医者さんのお嬢さんを中心に裕福な子のグループがあって、わたしはあまり近づけなかった。着ているものが違う。身体検査のときレースの下着とかちらっと見えて。いまだに覚えている執念深いわたし(笑)。

なぜか5月になったら半袖のセーターを着ると思い込んでいて、ちょっと寒くても半袖にこだわって母親に出してもらった。布でなくて毛糸または糸を編んだものというこだわり(笑)。

奉天 続き(わたしの戦争体験記 70)

おとといの日記「奉天」を書いていて気がついたことがあった。
最後の一行〈いまになって「奉天」という言葉に郷愁を誘われている。あの本はどんな話でどんな主人公だったんだろう。〉に続いて思い出したこと、考えたことを書いておく。
山梨県に疎開する娘を見送りにきた父親が渡してくれた本には、奉天で処刑された陸軍少佐のことが書かれていた。いまになればおぼろげな記憶でしかないが。汽車に乗るときは国粋主義をかぶれと父の深謀だったのだろうか。

本の内容は奉天で処刑された軍人の話だった。おとといの夜から「奉天」という言葉が胸のなかでだんだん大きくなっていった。
そこで「奉天 処刑」で検索してみたら「観るナビ」に以下の文章があった。
〈『中村震太郎少佐の墓』中村震太郎は昭和6年、陸軍参謀本部の命令を受けて満州に渡り、視察中、奉天興安屯軍に処刑された。この事件が満州事変の発端となった。当時、「護国の神」として全国民に仰がれた〉
そうだ、この人について書かれた本だった。あまりにも死者を美化していて疎開列車に乗った子供には怖い本だった。
ずっと山梨の記憶を封印していたので、「奉天」を思い出すこともなく暮らしていたが、今年になって「疎開を書く」気持ちになったとき、「奉天」の記憶も融けた。これはついおととい。

奉天の本は最後までよう読まずにリュックに入れて田舎に持って行ったが、結局風呂の焚付けとなった。
疎開生活中は相変わらず『小公女』と『イエローエンペラー』と吉屋信子にこだわっているわたしがいた。2年後に引き上げて大阪にもどるとき、坂の上で振り向いて山梨にはもう一生来ないと誓ったわたし。20代で八ヶ岳に登ったのは別として。
80歳を超えて「もう解禁してもええやろ」とひそかにつぶやいたが、いまは足が悪いので解禁はどうなるやら。
甲州ぶどうが食べたい。

奉天(わたしの戦争体験記 69)

『週刊現代』の写真ページを読んでいたら「ノモンハン事件」の写真と解説が載っていた。わたしは戦争中の子だから言葉だけはよく知っている。関わった人として辻政信って名前は知っている。でも言葉を知っているだけで、どんな出来事だったか、どんな人だったのかまったく知らない。
本棚から家永三郎さんの『太平洋戦争』を夫が出してくれたのでぱらぱらめくっている。詳しくてわかりやすい。でも、こんな厚い本を全部よう読まんから単語を見つけたら要所を読むことにしよう。

それで思い出したんだけど、疎開したとき乗った夜行列車で読む本がいるだろうと父親が持たせてくれた本があった。その本をもらったとき、父はいつも古本屋で買った翻訳物を読めというから、おかしいなと思ったのだ。
いまも内容がつかめてないが、生真面目な青年将校のような人の話で、最後は奉天で処刑されるんだったか、処刑を免れるんだったか。母と長女と弟と4人で湊町から出る関西線に乗った。名古屋で中央線に乗り換え、塩尻で東京行きに乗り換えて日下部駅で降りる。

わたしが持ってきたのは『小公女』とか吉屋信子作中原淳一絵の乙女ものだったから、生真面目な青年たちが悲痛な運命をたどる筋にはついていけなかった。「お前の本は出すなよ」といわれていたのでリュックの底に入れておいたが、父の心配で終わったようで、女の子が持っている本まで調べられることはなかった。
戦中に翻訳ミステリーを娘に読ませたがる人だから世の中の動きを用心したのかな。

いまごろ「奉天」という言葉に郷愁を誘われている。あの本はどんな話でどんな主人公だったんだろう。

兄たちのゲートル(わたしの戦争体験記 68)

去年の初秋に買ったふくらはぎサポーターの具合がよくて、真夏を過ぎたころからつけている。クーラーの効いた部屋にいるときに最適だ。贅沢をいえばもう少し長くて膝もカバーできたらいいと思うが、膝のサポーターは別の製品になるのだろう。膝のほうはけっこう前から何足か持っていて真冬にはタイツと二枚重ねにしたりする。

わたしが国民学校3・4年生のとき、上の兄は中学生、下の兄は国民学校5年か6年だった。二人とも学校へ行く朝は玄関でゲートルを巻く。
学生服なのか国民服の学生版なのか、二人とも国防色の制服を着て足にはゲートルを巻いていた。ゲートルを巻くのが毎朝の行事で、上の兄は何日か何週間かしたら上手に巻けるようになった。7センチくらいの幅の帯のようなもので、足首から膝下まできっちりと巻く。足首は細くふくらはぎは太いから普通に巻くわけにはいかない。途中でひっくり返してうまく婉曲している部分にそわすのだ。

できたできたと上の兄は得意そうに出かけてしまい、下の兄は悔しくてゲートルを投げたり、ぐしゃぐしゃ巻きして出かけたりした。「足を出しなさい」と母がいって巻いてやることもあったが、しっくりしなくて学校の先生に叱られたり殴られたりしたこともよくあったようだ。
そのころからふくらはぎってナンギやなあと思っていたが、いま使っているのはふくらばぎにぴったりと張りついて快適である。

母親は兄たちのゲートルの布地を「スフ」といっていたが、毛織物、綿織物の代用品として用いられた布だ。ステープルファイバー (短繊維) の略なんだって。桑の木の皮が原料の布に触った感じに似ていた。
スフの服にスフのゲートル、母は可哀想だがそれでも着るものがあるだけましといっていた。

ソウルフード 上原善広『被差別の食卓』を読んで

上原さんの子供時代の食べ物の話からはじまって、世界のソウルフードを求めた旅の話を興味深く読み終わった。そしてわたしのソウルフードってなんだと考えた。

わたしが疎開先から大阪へもどったのは1946年夏だった。新町の家がB29の爆撃で焼け、父が働く会社の寮に一家が集合したとき、知り合いの韓国人が故郷へ帰るから、空いた家に住むようにと手配してくれた。小さな家だが家具がついていてありがたい話だった。その近所には朝鮮人、被差別部落、沖縄人らが住んでおり独自の生活をしていたように記憶する。近所に住む弟の友達からの情報で、親が弟に口止めしても偉そうにわたしに伝えるのだった。

貧しい上に小さな子供まで抱えての生活は大変だった。母は近所の農家を手伝って現金収入を得ていた。内職はなんでも引き受け子供達が手伝った。
晩のおかずは必ず鯖の煮付けか塩焼きだった。それにほうれん草のおひたしがつく。思い出して上原さんが書いている「あぶらかすと菜っ葉の煮物」そのものやないかとうれしくなった。毎日母は魚屋で大きな鯖を2匹買ってきて自分でさばいていた。鯖は兄達には不評だったがわたしは大好きだった。鯖を炊いた汁にほうれん草を浸して食べるのは我が家のソウルフードだったといまごろわかった。

上原さんは世界を旅して、被差別の人たちの歴史と現状を報告している。その食べ物への好奇心には恐れ入ってしまう。本書は食べ物の話から入って差別について深く考えさせてくれる本である。
(新潮新書 680円+税)

上原善広『被差別の食卓』を読んで思い出したこと

1週間ほど前に夫が図書館で借りてきた本(上原善広『被差別の食卓』)を「先に読んでええで」と渡してくれた。若い友人に教えてもらったそうで「興味あるやろ、ソウルフード食べたことあるしな」「ええっ、覚えていてくれたん?あれは忘れられない味や、先に読ませて」と読み出した。

本の紹介を書く前に、たった一回だけど、わたしが日本のソウルフードを食べた話をしたい。

わたしは阪神大震災のあと、なにかできることでボランティアに参加したいと思っていた。最初は当時まだあんまり普及してなかったパソコンを使う仕事を手伝ったりしていたが、現地へ行きたくてネットで知った「週末ボランティア」に連絡して参加した。神戸三ノ宮から地下鉄で終点の西神駅へ行って駅構内で集合する。それから歩いたりバスに乗ったりしていろんな場所にある仮設住宅に行き居住者から話を聞く。3人くらいのひと組で、もどると報告書を書いて話し合う。

それに参加するほかに、報告・感想を「週末ボランティア掲示板」に書いていたら、パソコンがない人が多いからプリントして配りたいと相談され、3年くらいのあいだ編集してプリントアウトして事務局にファックスしていた。それをプリントして綴じ次の参加者に配る。猫のイラストなんかいれて楽しいと好評だった。

そんなある日、正月を過ぎてまもない冬の日に震災ボランティアのネット関連者たちのオフラインミーティングが三ノ宮で開かれた。わたしはボランティアのメンバーの1人やからええやろと勝手に参加した。中心の人たちの顔を見たい。
そのとき来ていた1人が部落解放同盟のKさんだった。わたしはKさんのブログを愛読していたので、顔を見られ、話ができるのでうれしかった。全部で10人くらいで女子はわたしひとりだけ。食べるものをそれぞれ持ってくるように言われていて、わたしは巻き寿司とおいなりさんを持っていった。
隣にすわったKさんが出したのが「魚の煮こごり」、いまこの本でわかったのだが兵庫のソールフードだったんだ!

兵庫県の海で獲れた魚だが、昔から普通の漁師さんが見向きもしない魚だという。しっかり煮付けてあって、汁は煮こごりにしてあった。
わたしは自分の母親の煮魚が好きだったのですぐに手を出し魚の身と煮こごりを食べて「おいしいです。これ好き〜」といった。
だけど、男子連中は見るだけで箸をつけたのは2人だった。みんな酒飲みで、瓶が空くと一升瓶を買いに走っているくらいなのに飲むだけで食べない。巻き寿司は好評だったけど、なんで魚を食べられへんのやろと不思議だった。みんなファーストフードに取り込まれているのかな。
わたしはずいぶん食べたけど、魚はけっこう残ってしまった。残りを黙々としまい込むKさんは寂しそうだった。
それ以来Kさんには会っていない。

その後だいぶ経ってから近所に「かすうどん」の店ができた。一度行って食べたらおいしかったが日常的にうどん屋に行くということがないからそのままになっていた。今日この本を読んで「かすうどん」のことをいろいろ知ったのでこれは行かねばと思っているところだ。

焼ける前の大阪、川と船(わたしの戦争体験記 67)

焼ける前といっても昭和16年に入学し4年生の夏休みに疎開したから3年ちょっとしか大阪市の学校に通っていない。いま長堀通を西に向かって歩くと北側に日新会病院があるが、そこが西六国民学校の跡地である。校名を記した立派な碑が立っていて「あたしはここの学校に通っていたんや」とちょっとうれしくなる。病院ができたとき碑もできた。

毎日のように同じ路地に住むさかえちゃんや堀江に住む芸者さんの子と遊んだ。夕方暗くなるころ「さいなら、またあした」と別れて問屋橋を走って渡る。橋に身を寄せて眺めると川には船がたくさん留めてあった。どの船にも大きい看板があって船名のほかに「たばこのむな」と大きな文字で書いてあり、船によってはハングル文字が書いてあった。
夕暮れの船は寂しそうで見ているとなんだか哀しくなったものだ。でも、晩ご飯に遅れるから走ったけど。
船には川に落ちないように用心せよというようなことも書いてあったような気がする。

期日前投票にいった

今日も雨は降らないがうっとおしい日だった。洗濯したが干していいものやら迷っていたら、雨の降らぬうちに期日前投票に行こうという意見があり、そうやな行こうかと洗濯物をおいて出かける支度をした。支度っていっても、お知らせ封筒と広報紙を出して入れる人を確認するだけだけど。昨日話し合って決めてあるんで早い。
雨が降ってきても大丈夫なようにビニールのレインコートをカバンに入れ、車椅子にちょこんと坐って夫に押してもらう。区役所に着いたら投票室は空いていてゆっくりと投票した。

帰りは図書館に寄ろうと車椅子押してもらっての本棚めぐり。
いちばん奥の児童書コーナーが昔からのお気に入りの棚である。車椅子を降りて杖をつきながら久しぶりにゆっくり見て回った。読みたい本はあるのだが、目下読む本が山積みである。タイトルだけ見て満足することにした。そのうち借りるか買うかしよう。

1冊だけ目に飛び込んできたケルト民話集の『ディアドレ』、知らない本なんだけどすぐに読みたくなり借りてきた。さっき読み出したが単純な短い物語でおもしろい。

投票して、本を借りて、公園で休んで持参のお茶を飲み、餌を持ってくる人を待つ猫と、鳩と、雀を眺め、いい午後を過ごした。

焼ける前の大阪、川があって馬がいた(わたしの戦争体験記 66)

れいわ新選組候補者の一人やすとみあゆみさんが馬を連れて新宿に現れたのをツイッターの動画で見た。その数日後に見た演説会の動画では、やすとみさんは馬と人について語られていた。そうだ、そうだ、わたしが子供のころ、近所の道を馬が歩いていて、決まったところで水を飲んでいた。水は道路脇に水道栓があって容器に溜めた水を馬が飲めるようになっていた。
道路には馬糞が落ちているので歩行注意だったっけ。フンを撒き散らしながら歩いている馬もいた。そうだ、馬が日常的にいた。

家から格子戸を開けてろーじ(路地)へ出て石畳の道を抜けるとアスファルトの道へ出るのだが、路地の終わりのところに大きな水たまりがあった。天気が良いと空が水に映って美しい。のぞいていると吸い込まれそうだった。
水たまりをそおっとまわって大通りに出ると、アスファルトなのに水たまりが多くて、溜まった水にガソリンがこぼれてピンク色に染まっている。美しい縞模様にうっとりした。いま思い出すと路地から出たすぐのこの道は新町南通になるのかな。そこからもうひとつ南の川に沿う大きな通りはいまの長堀通りだ。いま地下鉄があるところは川だった。
川に橋がたくさんかかっていて、走って渡ったり友達と手をつないで渡ったりした。よく覚えているのは白髪橋と問屋橋だ。ずっと東に行くと「橋を四つ渡りけり」の四ツ橋がある。橋の向こうは北堀江。友達が住んでいてよく遊びにいった。北堀江も新町も色街だった。
馬が荷車を引いてぽこぽこ歩いていて、荷車にはおっちゃんが前方を見ながら坐っていた。