モジーズcafe in Osaka の3回目に参加

第1回目は3月だった。4月の2回目は遠かったので見送ったが、3回目の今日は船場のカフェということなので参加した。
雨が降る中、いろいろな年代のひとたちが集まって男女半々だったかな。まず自己紹介。
それから下地(モジモジ)さんが、瓦礫焼却を知ったときからのことを話された。11年秋に大阪府の会議を聞きに行ったこと、それから活動をはじめられて、最初の会合〈大阪に放射能がくるぞ (+_+) 燃やしていいのか放射能(ー_ー)!! それでいいのか大阪人! 【大 阪】住 民 説 明 会 〉はわたしも参加していたのでよく覚えている。それから何十回と会合や集会を重ねられていまになった。これらの活動の影響は浸透しているとモジモジさん。これからは瓦礫だけでなくいろんな問題とからめていこうとおっしゃった。

フランスに長い年月住んでおられて帰国中の女性がフランスの原発分布図を見せてくれた。美しい地図に点々と原発の印がついている。
彼女はすぐにフランスへ行くが日本語のサイトが読めるようになったとのことで、このブログも読んでくれるって。
結婚で柏から出て大阪で暮らすようになった男性からの現地のことなども聞けた。ああ、やっぱり集まりに出てきてよかった。

モジモジさんの言葉から、印象に残った第一、デモや集会で参加者が逮捕された場合、まず抗議をしよう。よく事実関係を調べるのが先とかいう人がいるが、それはおかしい。
印象に残った第二、幸福を感じて生きていこう。幸福は快楽とは違う。暴力をふるって快楽を得ても幸福ではない。
わたしには今日はとても幸福な土曜日だった。

鬼蔵さんがジョン・ライドンに電話インタビューした記事が「BOLLOCKS」#007に掲載されています!

先月のことだけど、ツイッターで鬼蔵さんが「ジョン・ライドンにインタビューする仕事がきた!」と書いていたのでびっくりした。前々からパンク系のライブで通訳したり、音楽雑誌で翻訳しているのは知っていたけど、直接ジョン・ライドンに電話インタビューとは!! 2・3日前にはドキドキしているという書き込みがあって心配したけど、掲載誌を読んだら堂々たるインタビューぶり。

○ジョン・ライドンとは

70年代後半に世間を驚かせたロンドン発セックス・ピストルズの輝けるヴォーカル。
セックス・ピストルズは1975年にライブデビュー。
労働者階級出身のジョニー・ロットン、シド・ヴィシャスたちは世界の若者たちをとりこにした。
わたしは1978年からパンクミュージックに魅せられて来日したバンドのほとんどを聞きにいった。若い友だちもたくさんできて、そのひとりMちゃんはロンドンで買ったセックス・ピストルズのTシャツ、とさかのような赤髪に大きな安全ピンをあちこちに刺して、道行くひとが振り返って見ていた。

セックス・ピストルズは78年に解散したが、その年の終わりにジョニー・ロットンはジョン・ライドンと名前を変えてPiL(パブリック・イメージ・リミテッド)を発足。
わたしは円盤型の金属製ボックスに入っていておしゃれな「Metal Box」は高価で買えなかったけど、セカンドエディションのレコードを買ってよく聞いていた。
83年にPiLが来日して大阪公演は厚生年金会館中ホールだった。まだセックス・ピストルズの記憶が強くて、あのジョニー・ロットンだったジョン・ライドンを目の前にして興奮した。
それからジョン・ライドンとPiLは活動を休止していたけど、2009年に活動復活。

○ジョン・ライドンへのインタビュー

「ハロー」調子はどうとジョン。鬼蔵さんは「子供の時からのヒーローと話せるということで興奮が隠しきれません。泣きそうです」と答えて「想像できるよ(笑)」とジョン。こうしてはじまったインタビュー「いまLAに住んでいるけど庶民はどこでも変わらないね」

レコード会社の話になって、「自分のレーベルを立ち上げることになったんだよ。音楽業界から独立したってことだ」「問題は流通と販売だったけど、全て自分たちでまかなうことにした」「レーベル名がPiLだよ」。アルバムのアートワークもジョンである。動物愛護家のジョンは動物園に反対で自由に大地を走り回る動物を描いている。
「留まっていては、退屈でしょうがないよ! 物事はやればやるほど深いところが見えてくるし、知識も増えて新しいことに挑戦したくなる。イギリス人以外にはなかなか理解できないメンタル的なことだと思うが、威厳を持って歳をとっていくということなんだよ」

「本物のPUNKじゃない奴ら。PUNKってなにかわかっているのかと思う。あれは自分の生活と経験の中で辱めを受けたから生まれてきたものなんだ。街で脅かされ、警察には追われ、挙げ句の果てには裁判所にまで連れて行かれ・・・もう30年前のことだけど、そこから始まったのがPUNKだ」「35年前にいわゆる当時のPUNKと言われる服装をするということは、一種の覚悟がいった。侮蔑の言葉を知らない奴から投げかけられてもかまわないというね」「(いま)俺が他人と同じような服装をしていたら、それこそ亡くなった両親が、そこまで凡人になってしまったのかと嘆き悲しむよ」

音楽の話になって、いまのメンバーのこといろいろ、レコード制作の主にお金の苦労のことで18年経ってしまったことなど。そして「俺がPiLそのものであるのは間違いないね。だって俺が一人ですべての支払いを担っているんだから(笑)」

鬼蔵「貴方が及ぼした万人への影響は計り知れないと思うのですが、その辺はどのように捉えてますか?」
ジョン「影響を受けた人の中には二種類あると思う。一つは純粋に影響を受けている人々、俺はそういう人には尊敬の念をはらうし、正直さに感謝する。ただし、もう一方は影響を受けたと言いながら、ただ人の物を盗用して自分の利益にしているヤツら。そういうヤツらには過去痛い目にあわされたから、影響というのも考えものだね」
(「BOLLOCKS」#007 メディア総合研究所 発行 890円+税)

ヴィク・ファン・クラブ会報「Vic Fan Club News」4月号から転載しました。

モンゴル岩塩【蒙古颪】

医師で日本とモンゴルとの架け橋をされていて、ヴィク・ファン・クラブ会員でもある梅村さんが、娘さんの涼さんとふたりでモンゴル岩塩の販売をはじめられた。モピ活動の一環として行うので、一部はモピへのカンパになる。

その運動のことをぜひ会報に書いてくださいとお願いしたら、快諾と同時に岩塩を100グラム送ってくださった。食べて感想を知らせてほしいとのこと。
さっそく使わせてもらった。
生野菜をちぎったサラダにオリーブオイルといっしょに岩塩をふりかけている。ごま塩も胡麻を炒ったのに岩塩を混ぜている。蒸した野菜にもふりかけるとおいしい。ふつうに炒め物につかってもおいしい。漬け物もおいしい。

わが家でいままで使っていた塩は沖縄の「粟國の塩(沖縄県粟国島)」である。そこへモンゴル岩塩の到着で、台所に海と山の塩が並んだ。壮観である(笑)。

以前からモンゴル岩塩を使っているひとの話では、お風呂で入浴剤として使っているのだそうだ。そんな贅沢なことはようせんけど、そういう使い方もあるってことね。

いただいた100グラムがなくなりかけたので、今日は500グラム入りの大袋を注文した。ついている説明書には《モンゴル秘境の岩塩 蒙古颪(もうこおろし)3億5千万年前の神聖な塩ジャムツダウス》と書いてある。
(モンゴル岩塩 100グラム入り=300円/500グラム入り=1,000円)

『BOLLOCKS』#007 ジョン・ライドン インタビューに共感

1カ月くらい前に友だちの鬼蔵さんがツイッターにジョン・ライドンにインタビューする仕事がきたと書いていてびっくりした。そのインタビュー記事が「BOLLOCKS」#007に掲載されたというのでさっそくアマゾンで購入。
パンク雑誌で若者向きだから(それがあとで聞くと40代読者が多いそうで、文字が細かいと批判があるとか)全体に字が細かくて老眼鏡をかけても読みづらい。おおかたのページが黒地に白い文字なのだ。他のページはともかく、ジョン・ライドンの言葉はきちんと読みたいので拡大コピーして読んだ(笑)。鬼蔵さんのインタビューは聞くべきことはちゃんと聞いていると思った。根っこからのパンク少女だもんね。
「ヴィク・ファン・クラブの会報に紹介するね!」「紹介お願い!」の会話があって、さっき紹介記事を書いたところ。
本文は会報を出したあとでアップします。

ヴィク・ファン・クラブはステキ

昼過ぎに東京からのSさんと心斎橋駅ホームベンチで待ち合わせ。戎橋から道頓堀へと歩いてお好み焼きを食べた。ずっとしゃべりっぱなし。毎日のようにメールが行き来しているのにね。観光客となって法善寺横町へまわり水掛不動に水をかけ、おみくじをひいたら〈吉〉が出た。「此の人のうんせいは、月の始め年のはじめなどに開く、病人本復す、長き病気ならば草木の変わり時によかるべし、何事も発展力のある気運あり。遠慮なく活躍し停頓していた事をどしどい片付けるべし」とあった。おみくじなんてめっそうひかないので、ここに記しておく。背中を押してくれる言葉だし(笑)。ここで笑ったらご利益ないか。

横にある「夫婦善哉」でぜんざいを食べながらしゃべり、次は千日前通りをタクシーで東へ一直線で鶴橋へ。Sさんは市場で家族へ土産のキムチをぎょうさん買うて大満足。
JR鶴橋駅のブックオフへの矢印がある階段を昇ると古本の棚がぎっしり。つい眺め出したらきりがない。わたしがここへ来たかったのは、店内からJR構内へ行く改札があると聞いていたから。その改札から入って大阪駅へ行く電車に乗った。

それから例会となった。Sさんは同世代の息子さんがいるNさんたちと掛け値無しのおしゃべりを楽しめたと思う。会員どうしは会報で気持ちがわかっているから話がよく通じる。最終の新幹線に乗るためにSさんは走って帰り、そのあともなんやかやとしゃべって、あっという間の3時間であった。

モジーズcafe in Osaka ☆ に参加

ツイッターで知り合った友人のお誘いがあって吹田にあるモモの家での「モジーズcafe in Osaka ☆」に行った。
吹田はずっと昔にメイシアターにいったことがあるだけだが、数年前に下新庄の整骨院へ通ったことがあったのを阪急線に乗って思い出した。下新庄から神崎川を越えて次の駅だ。

古い日本家屋を利用した貸し座敷での学習会だった。庭にカリンとビワの大きな木があって足元にはオオイヌノフグリ、ヒメオドリコソウ、ハコベが咲いていた。わたしには座卓の下に足を投げ出しての数時間はちょっとしんどかったがユニークな会場で和めた。
お茶を飲みながらの少人数の集まりで終始穏やかな会話だった。
岩手県に行かれた下地(モジモジ)さんの報告があり、同じく岩手に行かれた方の写真を見せてもらった。311のときは栃木県にいて、その後仕事の関係でアメリカに住まれ、いま大阪に一時帰国中の子ども連れのご夫婦が来ておられた。

時間が半分過ぎたところで自己紹介時間に。いろんなところから瓦礫問題に関心を持っているひとがいろんな話をした。それにモジモジさんが答える。わたしは「活動とかしていないけど、ヴィク・ファン・クラブというのをやっており、毎日ブログを書いています。今日は若いひとたちの話を聞きにきました」と自己紹介した。
いつもツイッターで尊敬している若いIさんやSさんの話が、顔を見ながら聞けてラッキーなことであった。
帰りにはアメリカからのお土産のマスクをいただき、前に座っていた方と話しながら梅田までいっしょに帰った。

ミス・リード『村のあらし』

文字通りに〈あらし〉が村をおそう話かと思って読み始めた。なんと!〈あらし〉というのは電子力発電所の職員用住宅地計画なのであった。
架空の村フェアエーカー村は南イングランドのダウンズ地方にある。隣の村がビーチグリーン、そして近くにある町がカクスレー、村からバスで買い物などに行くところだ。

ある日、ミス・クレアが下宿人のミス・ジャクソンの部屋を掃除していると、窓から見慣れない男が2人、ミラー老人が精魂込めて耕している百エーカーの農地の中にいる。
それが始まりだった。男たちはニュータウン計画のために調査にきたことが村中に知れ渡る。原子力発電所の職員と家族が住む住宅とスーパーマーケットなどの設備を備えた大団地を、ミラー老人の農地とその向こうの斜面を開発して作る。発電所に通勤するためにバスがたくさん走ることになる。
だけど、学校はどうなるんだろう、教会はどうなるのか。教師も牧師も村の人々も寄るとその話で反対意見ばかりである。
【「思いあがった木っ葉役人どもめ。『公正なる価格にて、ご譲渡たまわりたく』なんて、ぬかしやがって。百エーカー農地は百年以上も、わしら一族の所有地だったんだぞ。(中略)わしの目が黒いうちは、そんなことはぜったいにさせやせんぞ」(中略)やるなら、やってみろ」老人はどなった。「やるなら、やってみろってんだ」】
説明会や公聴会が行われ、裕福な老婦人は有名な風景画家が好んで描いた村の風景を損なうと猛反発する。そして手にしうるあらゆる武器を使おうと、建設大臣に抗議のクリスマスカードを送る。ミス・リードの友人エイミーは新聞社に反対意見を何度も投書する。

すべての人が反対ではなく賛成する人もいるし、数週間するといずれ実行されるものとして計画を受け入れる態度が広まっていった。
【問題が始まった初期には、あれほど激しかった反対の意気ごみも、時間的にひきのばされ待たされるにつれて弱まったみたいであった。同じことを、今まではあまりに長く論じてきたので、どちらでもいいといった運命論的なあきらめが、かなり多数の人々の心を支配していた。】
だが、ミラー老人は違った。絶対、ここにがんばっていてやる。

〈あらし〉は過ぎ去った。一週間も雪が降り続いたある夜、カクスレーで集会が開かれた。地区議会の人たちと新聞記者は建設大臣と州当局からの文書を読み上げられるのを聞いた。
住宅地計画は取りやめになった。
(佐藤健一訳 角川文庫  1976年 485円+税)

「震災がれき、毎日燃やして大丈夫?? 2/3 講演会」へ行った

大阪市の瓦礫焼却がはじまって不安な日々もはじまった。どうしたら自分の被害を最小限におさえるられるかがいまの関心事である。ネットでの情報収集はもちろんのこと、こうして講演会があれば行って、得た知識をまわりに広めようと思っている。

お昼ご飯をすませてから天神橋6丁目(天六)の大阪市立住まい情報センターのホールで開かれた〈ちょっと待って! 放射能ガレキ 関西ネット〉主催の「震災がれき、毎日燃やして大丈夫?? 2/3 講演会」へ行った。
主催者の女性2人の司会と挨拶に続いて、講師の医師で医療問題研究会の柳 元和さんと北九州市こどもを守るネットワークのYさんが熱く語られた。1時半からはじまり4時半まで、質問もたくさんあって、その後はいろんなところで活動されている人からの報告があって、とても励まされて帰ってきた。

柳先生の講演タイトルは「低線量・内部被曝の危険性 その医学的根拠」で、レジュメが配られパワーポイントを使ってわかりやすく話された。
一応メモはしてきたんだけど、間違っていたりしたら大変なので、本の紹介をしておく。受付に置いてあったのをちらりと見ると山田 真氏推薦の文字が見えたので手に取った。「放射能から子どもたちやあなたを守るためにきっと役に立つ本なので推薦します。」とある。それですぐに買ったのだが、最初に山田さんの推薦文が3ページある。(編:医療問題研究会 発行:耕文社 1000円+税)
内容は〈 I 放射線被曝の基本的知識 II だから、放射線被曝は怖い III 低線量でも障害は発生する IV 原発事故処理労働者の健康被害 V いま、考えるべきこと—被曝をめぐる論争点— 〉
この本はすごくわかりやすく書いてあって日常生活で注意すべきことなどよくわかる。今日の柳先生の話も大阪弁でわかりやすかった。

北九州市の山口さんが次に話された。今日は体調が悪いのでとおっしゃりながらも、いろいろと話された上にたくさんの質問にも答えられた。レジュメのタイトルは「すでに始まっている北九州市がれき焼却 〜その影響、健康被害と対策〜」。
焼却がはじまってからの体の異状がいろいろ出た話を聞いて、これから大阪の人にも現れると思うとおそろしい。ざっとメモしただけでも、口内炎ぽく喉になにかはりつく感じ、頭痛、鼻血、目が赤くなった、目のかゆみ、白内障、腰痛、背中が張る、こむら返り、脚のすね・甲の痛み、骨折の増加、発疹、ジンマシン、眠気、など。眠気で交通事故が増える感じなので歩道を歩くときは気をつけること。そして、記憶力の低下、血が頭に上らない状況になる。
ほとんど影響のない人と、強く影響が出る人とに二極化する。その個人の弱いところに出るそうだ。対策もいろいろ教えていただいたので心強くなった。

どちらかがおっしゃったのだが、瓦礫を焼却しているのは日本だけとのことである。

寒かったけど楽しかったクリスマステント

近所の公園でバザーやライブやアート展示があると聞いて行ってみた。行き慣れた公園に数張りのテントが張ってある。
知り合いの九条クジラウオさんの雑貨、近郊野菜、古本やCDを売るコーナーや飲み物コーナー、白いテントでは写真や絵の展示があり、メインテント前では「おかんとおとんの原発いらない宣言2011」のメンバーがトークを繰り広げていた。

クジラウオさんの手作りケーキと別のコーナーのチャイで腹ごしらえし、トークを聞いたり、横に座った人としゃべったり。
非常に寒かったが気持ちがほかほかする会話でぬくもっている感じ。最近は家にいることが多いのでひとと話せてよかった。ツイッターを読んでいて知っていたつもりのひとの顔を見て納得したり。リクツっぽいひとかと思っていたら、リクツっぽくはあるが爽やかなひとであった(笑)。

野菜を買って1時間くらいいて帰るつもりが居心地よくて5時間くらいいた。途中でコンビニでトイレを借りたときに、手袋とカイロを買って、背中とお腹に貼って頑張った(笑)。
ライブも楽しかった。
こういう日があってとてもよかった〜

買ってきた野菜で晩ご飯。寒い寒いと根菜も葉っぱもいっぱい入れたうどんすき。七味唐辛子たっぷりふりかけて汗をかいた。

長谷川健一『原発に「ふるさと」を奪われて 福島県飯館村・酪農家の叫び』

12月1日に行った長谷川健一さんの講演会の帰りに買った本で、内容はほとんど講演会の報告と同じだけど、報告は〈あらすじ〉に過ぎないから、きちんと買って読んでほしい。理不尽に「ふるさと」を奪われた農民の叫びが伝わってくる。

わたしには故郷と思えるものはなく「故郷は遠くにありて思うもの」(室生犀星)という気持ちだって深くはわかっていないと思う。大阪に長年住んでいるが、ここをふるさとと思えない都会の流浪者である。それでもいま大阪に放射能がばらまかれて、ここから逃げ出さないといけない状況になったらどうしたらいいのだろう。身軽な都会ものですらこうだから、何代もその地に住む家族持ちの人たちはどれだけ大変か想像もできない。それがいまの日本で実際に起こったことだ。

飯館村の人たちは地震のおどろきが落ち着いたころ、津波から逃れてきた人たちにミルクを沸かして振る舞った。まだそのときは被害者ではなかった。目に見えない放射能が風にのってやってきたのを知ったのはその後のことである。

そして放射能をどう受け止めるかで、長年のあいだ共に酪農をやってきた村長と意見を異にすることになる。故郷を失うと同時に人間関係も崩れた。
長谷川さん夫婦はたくさんの問題を抱えたまま、いま伊達市の仮設住宅で両親と暮らしている。
(宝島社 1400円+税)