あれはたしかジェーン台風だった

台風19号は明日12日の夕方から夜にかけて東海または関東に上陸する見込みとラジオでいっている。関西はそれるらしいが、大きな台風なので影響はあるだろう。
今日は夜になる前にと、干してある洗濯物を片付けて竿やハンガーなども外した。明日は洗濯を休む。

台風がくると思い出すのは、中学生のときか働き出して間も無くのときだったか、ジェーン台風が大阪をおそったときのこと。当時は台風にカタカナの名前がついていた。父親がカラミティジェーンかと喜んでいたのを思い出す。

父も兄たちも仕事や出先から帰ってこなかったので、母とわたしと弟と妹が台風が通り過ぎるのを家で待っていた。急ごしらえの風呂場の屋根のブリキ板がはがれて飛んでいったのを弟が追いかけて拾ってきた。さすが男の子と母は大喜び。風が吹き荒れているとき、「なんまいだ、なんまいだ」と座布団を被っていた母(笑)。
わたしは「いざ!」というときのために、登山用アノラックを着て待機していたが、出番はなかった。

たしかその台風に、最寄の阪急電車「神崎川駅」に渡る橋桁が破壊された。それから長いこと電車に乗るために渡し船で川を渡っていた。

わたしが人に笑われようとも、台風に備えて早めに食量や懐中電灯やろうそくを用意し、風呂に水を溜めておくのはそのころの台風体験によるものである。

晩ご飯は友達と外食

台風19号が気になってしょうがない。天気予報ばかり見ているが見たからどこかへ行ってしまうわけでなし。外に出ると風が少し強く感じるが台風の影響かしら。
友達の母娘と新町のココナツカレーの店ヨバレヤで晩ご飯を食べた。友達の母のほうはヴィク・ファン・クラブ会員で英語教師と翻訳の仕事をしているIさん、そして娘さんAちゃんは最近生まれたばかりの赤ちゃんをだっこして現れた。うちは相方と2人。お店で座っていると続々と現れたのはDJやクラブ好きな人たちで、やーやーと相方と交流していた。ベルリンから一時帰販しているAさんはルーマニア人の夫人と二人連れで久しぶりの大阪を楽しんでいる感じ。

カレーを食べながら2年ぶりくらいの無沙汰を吹っ飛ばす会話がはずんだ。まあ、しょっちゅうメールしあっているからわかっているとはいえ、顔を見て話したら安心するよね。
Aちゃんの夫さんが来られなくて残念だったが、相方とAちゃんのクラブ話が面白かった。Aちゃんの彼の予期しなかった朝帰りの話に笑わされたが、クラブで踊っていたら早く帰りづらいでしょう。うちもいっしょやからよくわかる。

帰りにIさんからお土産をもらった。「黒船」のどら焼きで、大きな栗があんこの中に入っている豪華版。うまかった〜

秋日和

午後5時前の空はほんとにきれいだった。つるかめ整体院から道へ出ると東方面と西方面の空が見事なブルー。日暮れまでもうちょっと。迎えにきた相方と3人で「秋やね〜」「ようやく秋がきたね〜」と叫んでいた。真夏は西日が照りつけたが、今日は穏やかで、西日ちゃんよどこへ行ったのと聞きたいくらい。

しゃべりながら帰宅。「晩ご飯はなに?」「この間買った無農薬米十穀米ごはんとおかずいろいろ」とのことでおやつにサンドイッチを食べる相方。おやつはスルーのわたしはコーヒーだけもらった。

さて、今日は整体に行っていい思いをしたからあとは家事しなくては。薄手の羽毛布団を出してカバーをかける。いままで一人でやってきたけど、今年からは二人でする。カバーを引っ張るのが二人だとラクだ。いままで使っていた薄い夏掛けとタオルケットを洗って干した。

晩ご飯は、焼酎湯割り、焼き鯖、レンコンと満願寺唐辛子とキノコの炒めたん、ソーセージ炒めとトマト、十穀米ごはんと豆腐とネギの味噌汁、番茶。うまくて食べすぎた。

大型で猛烈な台風19号

台風発生のニュースを知るとまず台風襲来の1週間くらい前から膝が痛くなる。整形外科の先生に聞いたら「それは気象現象といって台風や雨の前に体調が乱れることをいうんや」と教えてくれた。高齢女性にそういう人が多いんやて。
台所でまっすぐ立って作業して30分くらい経つと膝が痛くなるので、よっこらしょと慎重に膝を正す。ほんまにいやになるが、これくらいで済んでいるから良いかと思うことにしている。背が低いから膝を曲げて立てないのがナンギ。少しでも背を伸ばそうと台所では健康サンダルをはいている。素足で立つよりかちょっとマシ。

次に頭痛がくる。こっちは台風がくる直前。どっちも横になってじっとしていれば治まるから騒ぐほどではない。まず長風呂。あとはサポーターで補ったり、お気に入りのスカーフを巻いたりしてやり過ごす。美味しいコーヒーも大事だ。
今年最強の大型で猛烈な台風19号が上陸の恐れあり。

昔みたいなおかず

枝豆の大きな株が手に入ったので、今夜はまずビールと枝豆に決まり。レシピ通りに茹でて、半分は冷凍した。それといんげん豆とゴボ天を煮たのと、ゴーヤチャンプルー、最後は番茶と梅干し。
「昔みたいな」とどこかで借りてきた形容詞を使ってわいわいいいながら食べた。枝豆は今年2回目かな。また大きな株が手に入ればいいな。

いんげん豆とゴボ天の炊いたんは我が家の戦後の弁当のおかずの思い出の一番目にくる。次兄が嫌いで毎度学校から帰ると弁当箱をがたがたいわせて「こんなもん食えるか」という。母は負けずに「いややったら食うな」と、また翌日もいんげん豆とゴボ天である。次兄は弁当を食べずにすませたのだろうか。それともパンとか買っていたのかな。母は他の子には内緒でパン代を出していたのかな。わたしは好きだったというか、普通という感じだった。夜はサバの煮付けとほうれん草(笑)。このおかずのおかげで、いまも内臓は達者だ。えっ、いちばん達者なのは口?(笑)。

今日のいんげん豆とゴボ天を煮たのは、上等な醤油とみりんをつかっているからうまいはず。いんげん豆はスーパーにあるような揃ったのでなく、あっちへ曲がりこっちへ曲がりの昔みたいないんげん豆だから懐かしくうまかった。

それにゴーヤチャンプルーは最近の我が家のヒットである。うまいうまいといいながら食べた。

96歳の姉と85歳の妹

午前中に施設にいる姉の世話をしている姪から電話があり、ちょっと待ってねとすぐに姉に代わった。姉はわたしの誕生日を覚えていて先月から会いたがっていたらしい。元気やったらええねん、たまに声を聞きたいからねという。そういわれると長いこと見舞いに行ってない。今年は暑かったからよう行かなんだと言い訳して、近いうちに行くからねといった。そういうたら喜んでいたから、近いうちに行かなあかんな。

姉の夫が亡くなってから去年の暮れで10年だ。それ以来、週に一度姉の家に行って習慣になって10年通った。
長いことおうてへんから会いたいやんといわれたら、ほんまやなあ、会いに行くわといわざるをえない。あたしも体調悪うてしんどいねんというたら、声は元気やんかといわれた。声は元気やなとだれにでもいわれるねん。そういえばわたしもそうやと姉。96歳の姉と85歳の妹がじゃれあうようにしゃべっている風景、なかなかええもんやん。まだ姉と妹の間に男兄弟がふたりいる。わたしの下に妹がひとり。

天気がいいから本を読もう

今日は良い天気だから読書の日にしようとテーブルに読みかけの本を出して並べた。安富歩『生きる技法』、家永三郎『太平洋戦争』、『別冊ele-king』第8号 MUTANT JAZZ。コーヒーとクラッカーのおやつで和みつつ、代わり番こに読んでいた。それぞれ内容が違って3冊とも興味津々で読めてよかった。まだみんな読み終えてないが。

ふと空を見たら、西の空が夕焼けになっていた。真っ赤に染まった西の空を見ながら、秋なんやなあとつぶやいた。
今年はいつまでも暑い。今日も昼間はTシャツ1枚で過ごしていた。いまもまだそのままのかっこだけど、さすがに二の腕が涼しくなったし足首が冷えてきた。薄手のカーディガンを着て背中の冷えを防ぎ、ふくらはぎサポーターで足を温めよう。それから晩ご飯で内側からも暖かくしよう。

それにしても最近日が短い。たまに近所に出て帰りは西日に当たってもすぐに日が落ちる。そしてあっという間に暗くなるので驚いてしまう。
西日のきつさがモンクのタネだった我が家の夏も終わってしまった。

白髪までもうちょっと

あたまの真ん中から前の髪がみんな白髪になった。後ろのほうはまだ茶髪である。あたま全体は入り混じっているのであまり見よくない。先日も整形外科の看護師さんが帽子を脱いだわたしをじっと見るので、白髪あたまにする過程でこうなっているのと説明したら、わざわざこういう髪型にしているのかとじっと見てましたといった。そう思っておいてねと笑っておいたが、早く全部が白髪になって欲しい。

今日の午後に美容院シュリットで髪をカットしてもらってきたが、もうちょっとやなあとのこと。あたまのてっぺんあたりを、このピンで留めてときらきら光るピンで留めてくれた。白髪のほうが面積広くなったみたい。あと2ヶ月でかなり変わるとのこと。ふう、あと2ヶ月の辛抱か〜

秋冬の帽子を全然持ってない。お店で良さげなのがあれば買おうかな。はて、どこで買ったらいいものやら。

うちのカメムシ エダマメくん

2・3日前のこと、外出からもどって窓を開けたとき風にのって入ってきたらしい緑色の虫がテーブルにちょこんと寝転んでいた。きれいな緑色で可愛いといってもいい。相方が「腹減ってるやろ」ときゅうりを薄く切って側に置いてやったら、さっそくうまそうに舐め出した。ちょうどその日にフェイスブックに「カメムシが電車の窓にくっついたまま大阪に着いた」とあった。写真を見たらうちのとそっくり。これはカメムシなんやとひとつ勉強した。きれいな色で繊細な触覚。

次はハチミツを水で溶いてティッシュに吸わせたのを置いたら、すぐに気付いて抱きついている。写真を撮りカメムシくん感動したみたいと相方がフェイスブックに書いたら「優しい」と反応が数件あり。「優しさに感動した」という人に名づけ親になってと頼んだら「エダマメくん」と命名してくれて、カメムシのエダマメくんはめでたくわが家族の一員となった。

今朝も動いていて朝ごはんをやったときは自分からきゅうりに乗っかっていたんだけど、午後見たら動かなくなっていた。虫の命は短かかったけど、いいこともあったよね。

奉天 続き(わたしの戦争体験記 70)

おとといの日記「奉天」を書いていて気がついたことがあった。
最後の一行〈いまになって「奉天」という言葉に郷愁を誘われている。あの本はどんな話でどんな主人公だったんだろう。〉に続いて思い出したこと、考えたことを書いておく。
山梨県に疎開する娘を見送りにきた父親が渡してくれた本には、奉天で処刑された陸軍少佐のことが書かれていた。いまになればおぼろげな記憶でしかないが。汽車に乗るときは国粋主義をかぶれと父の深謀だったのだろうか。

本の内容は奉天で処刑された軍人の話だった。おとといの夜から「奉天」という言葉が胸のなかでだんだん大きくなっていった。
そこで「奉天 処刑」で検索してみたら「観るナビ」に以下の文章があった。
〈『中村震太郎少佐の墓』中村震太郎は昭和6年、陸軍参謀本部の命令を受けて満州に渡り、視察中、奉天興安屯軍に処刑された。この事件が満州事変の発端となった。当時、「護国の神」として全国民に仰がれた〉
そうだ、この人について書かれた本だった。あまりにも死者を美化していて疎開列車に乗った子供には怖い本だった。
ずっと山梨の記憶を封印していたので、「奉天」を思い出すこともなく暮らしていたが、今年になって「疎開を書く」気持ちになったとき、「奉天」の記憶も融けた。これはついおととい。

奉天の本は最後までよう読まずにリュックに入れて田舎に持って行ったが、結局風呂の焚付けとなった。
疎開生活中は相変わらず『小公女』と『イエローエンペラー』と吉屋信子にこだわっているわたしがいた。2年後に引き上げて大阪にもどるとき、坂の上で振り向いて山梨にはもう一生来ないと誓ったわたし。20代で八ヶ岳に登ったのは別として。
80歳を超えて「もう解禁してもええやろ」とひそかにつぶやいたが、いまは足が悪いので解禁はどうなるやら。
甲州ぶどうが食べたい。