疎開者と引揚者(わたしの戦争体験記 36)

戦後だいぶ経ってからわたしら母子が納屋を改造して住んでいたように、小川の上流に同じような納屋に住み始めた人がいた。母親とちっちゃな子で、母は子を離さずにいつも抱くか背中におぶっていたのを不思議に思ったのを覚えている。母と叔母さんとの会話で新入り母子は引揚者だとわかった。こどもと離されて連れていかれるのをおそれているのだと、ここにいればもう大丈夫なのにと母はいうけど、こどもを取り上げられる恐怖心がおさまらなかったのだろう。

そういえば春頃に学校の校庭で満蒙開拓団へ参加する人たちの壮行会があった。にぎやかとはいいがたい歌と励ましの言葉が続き、わたしたち児童はなにもわからず日の丸の旗を振って見送ったのだった(ウィキペディアに詳しい説明あり)。

引揚者が帰ってきていると村で噂されてたのこの人だった。
こんにちはをいおうと顔を見ると、髪がごわごわ。バリカンで刈ったのではなくハサミでジョキジョキ切ったみたいなざんばら髪が伸びていてすごく見苦しい。すぐに手ぬぐいを髪の上にのせて覆ったが子供心にも恥ずかしさが伝わった。ソ連兵に強姦されるから髪を切って男の服を着て逃げてきたそうやと母が説明してくれた。最後はいつものセリフ「あんたらはこうやって親がいて毎日ご飯が食べられて幸せや」が出た。

母の手伝い(わたしの戦争体験記 35)

5年生の一学期中に狭い納屋に母親を中心に一家4人で住みはじめた。毎日学校から帰ると叔母の家の井戸から水を汲んできて大きな陶器のかめに入れておく。その水で母が炊事をするのだった、食器洗いと洗濯と洗顔は横を流れている小川でやった。川の水は1メートル流れるときれいになるのだと家主さんがいった。たしかにきれいだったがうちしか使ってないし。

母は小さな畑を借りて野菜を作りはじめた。お米のほかの食べ物はここの作物で間に合わせたが、たまにいとこが食べ物を土間に放り込んでくれた。

近所の神社に行って杉の木の葉っぱの乾いたのを拾ってきて焚き付けにした。地元の子はそんなことをしないから見られるとちょっと恥ずかしかった。少し歩くと大きめの川が流れていて、秋になると川床に草が伸びたまま乾燥しているのを折ってきてかまどで燃やすのに使った。弟妹が幼いので、母の手助けはわたしの仕事だった。

母は田植えや草取りを手伝いに行っていくらかの現金またはお米をもらってきた。たまに大阪から闇で手に入れた砂糖など送ってくると、それはうちでは食べずに米と交換されるのだった。空襲の前に衣服を疎開させてあったのは順繰りに食べ物に代わっていった。

ノミ・シラミ(わたしの戦争体験記 34)

髪に櫛を入れて髪の生え際から先まで梳いていく。頭に空気が入って気持ち良い。櫛をしっかり見ると黄色っぽい櫛の節目にシラミがたくさんひっついている。半円形の梳き櫛をおばあちゃんからもらって毎日学校へ持って行った。休み時間に櫛を入れるのが習慣になってしまい、梳いたら点検してシラミがついていたら親指の爪でプチプチと連続殺戮。

春になると暖かいのでシラミは髪から這い出して首筋を降りてくる。シラミは田舎の子にもたかっていたが、われわれ疎開児童の血は新しい味らしくて喜んで吸っていた。下着の縫い目などにひっついていてしつこい。見つけたら悲鳴をあげたのは最初の頃で、慣れたら黙々と両手の親指でつぶしてた。

ノミはその点、飛んで逃げるなど陽気だった。「コーシンチクチクノミガサス」と子供らが叫んだのは、アメリカ空軍の空襲が甲府へまでくるようになったころ。

大阪大空襲のあと母親が弟妹を連れてやってきた。近所の納屋を借りての生活に慣れたころ、ノミシラミの空襲もひどくなった。納屋の壁につってあったゴザなどにも先住の虫たちが住んでいたのだろう。
シラミは大阪でも風呂屋からもらって帰ってナンギしたと姉兄にのちに聞いた。

記憶に残っている先生(わたしの戦争体験記 33)

国民学校の5年間で覚えている先生は一人だけ。5年生のときの担任になった高保先生(男性)だけは忘れずに覚えている。夏休みの間に戦争に負け、1学期では「勝ってくるぞと勇ましく」と歌っていた子供らは二学期になったら民主主義教育を受けることになった。先生がたは大変だったろう。子供たちに教科書を机の上に出させて、都合の悪いところを墨で消すよう指導して大変だった。わたしは意地悪く先生の顔をうかがっていたが、高保先生は子供達を相手に「いままでの先生がいってたことは間違っていた。これから変わっていくぞ」と淡々と告げた。

この時期に子供達を教育していくのは本当に大変だったと思う。男女同権なんてまだ知らない言葉だったけど、高保先生は男女の差別をしない人で女子たちの人気が高かった。

これはまだ戦争中の話だが、あるとき先生が風邪を引いて休まれた。日曜日にK子がT子を誘ってうちにきて、これから先生の病気見舞いに行こうという。珍しく叔母がタマゴを10個新聞紙に包んでくれた。T子は20個の箱入りを持っていた。K子が「うちにはタマゴがない」というので、わたしはふと気がつき、庭の片すみに咲く水仙を切ってK子に持たせた。

先生は水仙を見て、そのお見舞いがいちばんうれしいといった。K子はうれしそうにうなづいた。わたしはK子が「これはくみこさんがくれたづら」というかと思って待っていたが一言もなし。「それはわたしが・・・」としゃしゃりでる度胸もなし。いまだに忸怩たる気持ちを抱えている(笑)。

竹槍で貞操を守る(わたしの戦争体験記 32)

5年生の1学期には戦局が悪いらしいという気分が国民学校生たちの間にただよっていた。コーシン(甲信)地区には警戒警報が毎晩のように発令されていた。学校では男子生徒は柔道や剣道をやらされていた。銃剣持って突撃のしかたとか。

ある日、女の先生が4年生以上の女子生徒たちに竹槍の訓練をするといいだし、次の体操の時間から始めるという。いざとなったら山に登って、追いかけられたら竹槍で抵抗して貞操を守るんだって。そのすべを教えるというのだ。生徒はみんな黙って聞いているだけだった。

休み時間になってもだれもなにもいわない。「竹槍やる」とも「竹槍はわたしらには無理」とも誰もいわなかった。学校には竹槍が何本かあって、それを持って振り回している子もいた。大抵は無視してたが。

次の体操の日になったが、竹槍の訓練の話は出なかった。やるといってた女先生はなにもいわずに跳び箱の訓練してた。

ご馳走は鶏と兎(わたしの戦争体験記 31)

学校で兎を飼いはじめた。校舎の横に50センチくらいに区切った檻が作られ、生徒たちは餌にする草を順番に持っていくようにいわれて朝の登校時に抜いた草の束を兎の檻に放り込む。いろんな草が放り込まれたが、わたしは兎が喜んで食べるチチグサを選んで摘んでいった。細い茎を折るとミルクのような白い液が出る。ある日上級生に「毎日チチグサ持ってくるのはくみこさんけ」と聞かれた。「そうづら」とこの頃は山梨弁で返事したなあ。あの兎たちはどうなったろう。学校の先生たちが食べたのかもな。

叔母さんの家では飼ってなかったが、裏に住むいとこの家では兎と鶏を飼っていた。

ある日、息子に召集令状が届いて戦争に行くことになった。明日の朝は出征という日は「今日はご馳走だぞ、鶏を一羽絞めるから」とそこの父親がいって、鶏一羽を使った汁の大鍋が供された。わたしも丼一杯食べさせてもらった。

鳥鍋を食べ、そこの息子はみんなが寄せ書きした日の丸の旗を鉢巻にして、数人の村人に送られてどこかに出征していった。そのころは田舎の侘しい出征風景が男子のいる家で見られたが、いつのまにか成人男子が村にいなくなった。

次の年の正月は兎の汁がご馳走だった。わたしが採ってきて食べさせたチチグサを食べた兎の汁だからうまかったよ。叔父さんたちは兎の締め方の自慢話をしていたっけ。可哀想とか思うよりも腹が減っていたからうまかった。

家族を乞食と間違えた(わたしの戦争体験記 30)

第二次大戦がはじまったのは1941年12月でわたしは1年生、4年で疎開して1945年(昭和20年)5年の夏が敗戦だった。5年生になって田舎暮らしにも慣れたころ、道で遊んでいると、向こうの方から数人の人間が歩いてくる。「乞食・・」と一声出したら、「違う違う、被災者だ、誰かな」と大人がいった。なんと、その乞食まがいはわたしの母と姉と弟と妹だった。汚れた衣服で顔も真っ黒というか戦災汚れの上に列車の汚れで乞食以下の状況だった。

その日から母なき子だったわたしは母も弟妹もいる子になった。姉は食糧を背中に背負って大阪に逆戻りした。そのとき、わたしが漏らした言葉が大阪の家族全員に伝えられた。「家が焼けてよかった」っていったんだって。家が焼けて母と小さいのが助かって田舎に来たから、わたしは親なき子にならずにすんでほっとしたんだ。

3月14日のアメリカ空軍の攻撃で西区新町の我が家は焼き払われ、父親は焼夷弾の断片が足にあたって怪我をした。

なんとか命は助かって郊外へ逃げ、父の勤務する会社の社員寮の一間に在阪者全員揃ったときはほっとした。その後は母とこども3人がまる1年山梨県に住み、大阪からの迎えを待つことになったが、敗戦を迎えても迎えは来ず大阪になかなか帰れなかった。結局帰れたのは敗戦一年後の翌年の夏だった。そして長い貧乏生活が続く。

夜なべに渋柿の皮むき(わたしの戦争体験記 29)

山梨の家の庭には渋柿の木が何本かあった。渋いから採ったらいけない、柿の枝はもろいから柿の木に登ってはいけないと叔父さんがきつくいっていたので、きれいな実だなと思いつつ眺めていた。夕日があたるとすごくきれいで見飽きない。

寒くなった頃から夜なべ仕事で柿の皮むきがはじまった。これは叔父さんだけしかできない仕事だった。左手に持った柿を右手の包丁で剥いていく。右手の包丁よりも左手の柿が動いていた。その速さ、確実さ、そして安全さに驚いて見入っていた。やってみるかといわれて首を横に振った。「手を切るだけづら」

剥いた柿は叔母さんの手で縄に美しくさげられ、二階の窓からずらりときれいに吊り下げられた。秋の風物詩という感じですごく美しい。この広い窓は柿をぶら下げるためにあるのかと納得した。

寒くなると柿は甘~い「ころ柿」になって仕入れにきた商人に売られ、農家の現金収入となったのだろう。ちょっと傷が入ったのとかをくれたので食べたがほんまにうまかったあ。

大菩薩峠で弟が迷子になった(わたしの戦争体験記 28)

山梨県へわたしを疎開さすために同行した母は、わたしと弟を連れてもう一人の叔母(三女)の家に挨拶に行った。先日書いた恵林寺へ行く途中で道をそれた村だったと思うが、母としては大いに奮発して自動車を雇い、塩山経由で妹の嫁いでいる村へ行った。乗るときも降りるときも自動車が珍しくて村の子たちが群がって見にきた。

叔母と叔父に挨拶してわたしは行儀よくしていたが、いたずら盛りの弟はじっとしていられず、一人で庭から村の方に出て行った。村の子はびっくりだろう。よそ行きを着た小さな男の子ひとりがふらふら歩いている。集団で弟をつけて歩き、弟は上へ上へと逃げたらしい。かなり高いところまで登って行った。家中が大騒ぎになり、近所の人たちも一緒に探し始めたが、なかなか見つからない。追っていった子供らに聞き出して山の途中で大声で泣いている弟を見つけた。

あの山は大菩薩峠だとそのときおじさんがいったのを信じ込んでいまにいたる。半ズボンの可愛い都会の子だったが、村の子には天狗の子に見えたって。

中里介山の『大菩薩峠』は3冊目くらいまで読んで中断したまま。第1巻だけを何度も読んだ。映画は市川雷蔵のを深夜テレビで見て、その後はビデオを借りて何度も見た。

我が家の事件のことは記憶が薄れていたが、連合赤軍事件の大菩薩峠での騒ぎで思い出した。それ以来、叔父の言葉がウソかホントか突き止めたいと思っているがもう聞けない。肝心の弟ももうこの世にいない。

恵林寺へお参り(わたしの戦争体験記 27)

ある日曜日の朝、近所のK子と遊んでいると上級生がついてこいといった。これから「えりんじ」へ行くからしっかり歩けとのことで、モンペにゲタばきだったがついていった。遊びに行くからって着替える服はないし、靴はないし。

いま地図を見たら、山梨県甲州市塩山小屋敷2280恵林寺とある。そこまで後屋敷村(いまは山梨市)から歩いていったのだが、地図を見たら記憶にあるほど遠くない。実はそんなに大変なことではなかったのかもしれない。5・6年生はうんと大人でみんなを引き連れて歩いていた。

野道といってもけっこう立派な道だったが、覚えているのは道の両側が畑で、わたしらは腕を組んだりして歌謡曲をうたいながら歩いていた。

青々とした野菜畑や道端にタンポポやレンゲの花が咲いていたから春だったんだろう。つまらんことを覚えているもので『野崎参り』の歌がぴったりだと思ったっけ。

やがて立派なお寺に到着し、引率者が寺の由来など教えてくれた。

恵林寺サイトの「恵林寺の歴史」には「4月3日、恵林寺は織田信長の焼き討ちにあい、快川国師は『心頭滅却すれば火もおのずから涼し』と言葉を残し、百人以上ともいわれる僧侶等とともに火に包まれました。」と書かれているが、その通りの説明であった。甲州人の心に刻まれている言葉なのだろう。のちにおばあちゃんから聞いたし、母も話していた。

引率者は自分より年下の者に甲州魂を伝えたかったのだろう。

帰りはただうらうらとした春の日の野道を歌いながら歩いていた記憶のみが残っている。鳥の鳴き声も。