お嬢様も疎開(わたしの戦争体験記 25)

山梨の学校に少し慣れてきて、大阪から疎開したわたしへの興味も失せたころ、こどもたちの間にうわさが流れた。あの山のふもとにある大きな屋敷に二人のお嬢様が疎開して住んでいるという。家庭教師がついていて屋敷で勉強しているそうだ。みんなの心にロマンティックな気分が広がった。
とう子さん、きん子さんと二人の名前がどこからかみんなに伝わった。わたしは、唐子、東子、錦子、欣子などと知る限りの文字を当てて想像の二人と仲良くなった。夢の中でいっしょに縄跳びをしたり、お人形ごっこしたり。

噂は結局いっときのことだった。誰もお嬢様がたを見たこともなく噂は広まったものの消え失せていった。わたしだけがずるずると思いを引きずっていた。いまも名前を覚えているぐらいだからたいしたものだ(笑)。

だけど、大きな会社のえらい人のお嬢様とかが疎開したら、唐子さま、東子さま、錦子さま、欣子さまのような生活をしていたんだろうと思う。

糞尿談をもういっこ(わたしの戦争体験記 24)

便所、回虫と話が続いたところへミクシィ日記に転載した「引っ張ったら【回虫】だった」についたコメント「小さな畑に肥を撒いているおばあちゃんを見て」を読んで思い出した。
学校の畑での5年生の授業。クラスの畑としてみんなでなにかを育てるのだが、「肥をやる」と男先生が言い出し、肥溜めから桶にすくい出して運べという。もう一人の小柄な子と二人で天秤棒の中心に桶がくるようにかついで運んだ。桶の中の糞便がゆらゆらして飛び散りそうなのを必死で抑えながら。
二人の顔があまりにも必死で悲惨だったせいか、さすがに二度目はなくまたもやいのちびろいした。【一度目は2018/11/02「いのちびろい(わたしの戦争体験記 20)】

稲は、苗づくり、田植え、草取り、稲刈り、それを干して積んで、脱穀してと米つくり一通りの仕事をしたっけ。
わたしの好きな畑仕事は「麦踏み」だった。黙って自分のペースでできるから。でもきっと体重が軽すぎて、麦踏みに値する重みがなかっただろうと思う。
麦畑の畝を両足で踏みながら腕を背中に組み横向きに進んでいくのは楽しかったが、畑が広すぎ踏む箇所が長すぎて畑一枚の最後まで頑張れなかった。
ようするに、なにをしても半人前以下だということ。でもなんとなく生き延びていまにいたる。

引っ張ったら【回虫】だった(わたしの戦争体験記 23)

この話はいままで夫以外に話したことがなかったが、前の話の流れで書いておこうと思う。
戦時中はいろんな人のお腹に回虫が住んでいたんじゃないかな。都会でもいるだろうが、田舎の生活だといやでも共生することになる。こやしとしてまいた糞便から回虫の卵が畑の野菜にくっつき、生で食べる漬物にくっついてお腹に入る。
学校では「虫下し」を飲むようにいわれたが、叔母さんにはいわなかった。当時は「なにごとも我慢する」がわたしの信条であった。

ある日、夏だったか冬だったか覚えてないが、便所で座っているとお腹の中がおかしなことになっている。下痢ともなんともわからずに踏ん張った。もてる力を出し切ったら、お尻から白い紐状のものが垂れ下がっている。どうするべ、と考える間もなくその紐を新聞紙でつかんで引っ張った。ずるりと白い紐は垂れ下がり、ぽかっと出きって下の便壺へ落ちて中へもぐっていった。

「あーあ」と安堵の一呼吸をしてパンツを上げ便所から出た。なんといわれるかわからないので、叔母にはいわず。学校でもいわないままいまに至る。

気持ち悪い話だけど、ずるずると出てきて、最後にすぽっと抜けたのが気持ち良かった。
ウィキペディアに回虫の写真があった。そのとおりだった。いまは平静に眺められる。

田舎の家で困ったのはトイレ(わたしの戦争体験記 22)

田舎の家は大きい。二階、三階ではお蚕さんを飼っていた。朝早くから蚕が桑の葉を食べる音が聞こえてくる。早起き夫婦が早朝からカゴを背負ってもいできた桑の葉だ。お昼にはまた捥ぎに行って昼ごはんを食べさす。蚕は繭が現金収入になった。残ったのは糸にしたり、糸から布にしたり、綿にしたり、捨てるところなしで役に立っていた。

叔母の家は左右に長くて向かって左側が座敷、次は掘りごたつが真ん中にある座敷でご飯はここで食べる。二つの部屋には庭に向かって縁側がついていた。右側が玄関兼なんでも部屋。その右が土間で外からはここへ入る。奥は台所で大きなカマドがあり、囲炉裏が切ってありいつでも湯が沸いている。井戸から汲んできた水を入れる大きな瓶が置いてあった。
台所の裏側には風呂場があって、風呂を沸かす日は「ふろ、おくんなって」といって近所の人たちが順番にくる。お湯は当然汚いがそのほうがよいという人もいる。石鹸の溶けた湯に入るのがいいんだって。

トイレは外にある。徒歩1分かからないが外だから暗くて怖かった。おもや(母屋)から便所まで外を歩いて行くので、雨や雪の日や寒い日は大変だった。大きな番傘と合羽が用意されていた。
裸電球が弱々しくまたたき、板囲いで床も板が渡してあるだけ。トイレは丸い穴である。おおざっぱに切った新聞紙がトイレットぺーパーだ。便は大切な肥料なので、溜めて日が経ったものを汲んで畑にもっていき作物の肥料にする。当然、寄生虫がいて、学校で「虫下し」を飲まされた。

便所の外側にザクロと梨の木があり、実は採って食べてもいいといわれていた。おかげで木登りがうまくなった。
足元にはいろんな草花が咲いていた。

懐かしのかちんうどん

今日の晩ご飯は相方が知り合いとよそでご飯を食べることになって、わたしは個食になった。昼ご飯に食べた鯖の味噌煮缶と野菜と豆腐とキムチの味噌汁にお餅を入れてぐつぐつ煮たのを大丼で豪快に。なにに入れてもお餅はおいしい。

先日、近所のそば処 宋平で焼酎とおかずのあとに「かちんそば」を相方が食べた。食べる前に「かちんそばてなんや」と質問あり。「そばにお餅を入れてある、かちんうどんもうまいよ」と返事したが、わたしはその前に鍋焼きうどんを注文していた泣。餅入りのお蕎麦、かちんそばがおいしかったって。

最近宋平以外にうどん屋さん蕎麦屋さんに入ることがない。通天閣の側にある総本家 更科の蕎麦はうまかった。そして鍋焼きうどんのまたとないうまさかな。大晦日の年越し蕎麦もすごーくうまかった。こちらも長いことご無沙汰だが道頓堀の「今井」のうどんもうまい。
すいすい行けるようになったら食べに行くぞ〜

もっと昔の話だが(ハタチごろ)東淀川区の三国の幼稚園を借りてコーラスの練習をしていた。薄汚い神崎川が流れているところで、頑張って泉合唱団という名前をつけた。あたりにまだ蓮池が残っていた頃のこと。
週に一度の練習日に仕事を終えて集まるのだが、たまに三国商店街にある「力餅」できつねうどんかかちんうどんを食べたものだ。小遣いの都合で毎週とはいかなかったが、ここで晩ご飯を食べる工場労働者もけっこういた。大メシと素うどんのセットが懐かしい。

叔父さんは見栄っ張り(わたしの戦争体験記 21)

母のきょうだいは女3人の次に男、そのあとに女が2人の6人きょうだいだった。わたしが世話になった母の実家は末っ子の女子が養子を迎えていた。4人目で長男の叔父さんは、百姓はいやだと甲府へ出て商売をしていたようだ。
この叔父さんは羽振りがいいときは気前がいい。国民学校の旗日にミカンを一箱寄付したりする。朝礼の時に先生からミカンを分けてもらって「くみこさんはいい叔父さんがいていいね」とクラスの子がいう。ふふと笑うしかないわたし。実のところ叔父さんはわたしにはミカン一個すらくれたことがなかった。

学校帰りに出会ったとき「くみこ、お前の靴はなんだ、ボール紙じゃないか、今度オレが皮の靴を買ってやるぞ」と愛嬌のある大きな声でいった。わたしはずっとおじさんの姿を見るたびに、靴箱を持っていないかと気にしてたが、何ヶ月後にようやくこの叔父さんのいうことを当てにしてはいけないと悟った。

みんなと同じように国民服を着てもぴしっとしていてとても見栄えがよかった。誰にでも愛想がよくてうまく生きているように見えたが実はどうだったんだろう。

いのちびろい(わたしの戦争体験記 20)

疎開して国民学校4年生の2学期から学校へ通うようになった。村の名は後屋敷村だったけど校名は後屋敷小学校ではなかったような気がする。なんて名前だったか全然覚えていない。もしかしたら日下部小学校だったかしら。鉄道駅が日下部だったから。

学校から帰ると道を隔てた農家のK子が遊びに来てそのままうちにいることもあり、どこかへ連れ出すこともあった。他の子も連れ立って女子グループで小遠征することもあった。ある日、連れ立ってけっこう大きな川へ行った。もしかしたら笛吹川だったかもしれない。ちょうど男子グループがいて川に渡してある太い丸太の上を次々に渡っていた。軽業師みたいに軽々とうまい。親分のような少年が指図していて「女子も渡れ」といった。その瞬間にわたしは落ちて死ぬと思い、「もはやこれまで」と時代劇のようなセリフが頭に浮かんだ。女子たちも慣れたものという感じで渡って行った。とうとう最後にわたしの番になった。丸太に這いつくばっていくしかないと覚悟を決めてじっと川と丸太を見つめていると、リーダー少年が「今日はこれで終わるづら」と声をかけ、みんなを戻らせた。

あんなにほっとしたことは生涯であの一回だけ。わたしはあの声のおかげで一命を取り留めて今日も生きている。わたしが落ちたら親や先生に怒られると思って、彼はあの命令をくだしたのだろう。

仮病でずる休み(わたしの戦争体験記 19)

疎開先の人たちに悪い人や威張った人はいなかったが、みんな働き者で、小さい女の子にかまっていられない。叔母さんだって洗濯はしてやらなあかんし、まずご飯を食べささなあかん。誰とも話をする時間なんてなかった。祖母だって孫をおんぶして繕い物したり、蚕の糸をとったりしていた。

家のいちばん奥というか仏壇のある客間のような部屋に祖母と孫の6歳の男子とわたしが並んで寝た。田舎の人はみんな早起きで、わたしが目覚めるころは一働きしたあとだ。
そろそろと起き上がって井戸端で顔を洗い、いろりのある台所へいって朝食を食べる。それから学校へ行くのだが、10日に一度くらいわたしは頭いたかお腹ぐあいが悪くなることにして起きていかなかった。叔母さんと叔父さんは顔を見合わせて苦笑いしてたみたい。

起き上がらないでじっと天井を見ながら寝ているといつのまにかうとうと(笑)。トイレが遠いのにはまいった。そっと縁側から庭の裏の方に出て、そぉぉっと・・・雪が降ってると白い雪が黄色く染まったっけ。近くに住むK子が学校帰りに寄って連れ出してくれた。

叔母が母に久美子は勉強しないし学校はさぼるしと手紙を書いたらしく、母親から厳しい叱責の手紙がきた。叔母さんに勉強するくらいなら本を読めと父親がいったともいえず、黙って下を向いていた。この父親は「雨が降るのに学校へ行くことはない」という人なのだ。
学校へ行く途中で下駄の鼻緒が切れたからと裸足で帰ったこともある。ところがある日、親切な女性が鼻緒を直してくれたので、その日は帰らずに学校へ行くはめになった。1時間目だけ遅刻で情けない一日。

楠公炊き(わたしの戦争体験記 18)

楠公炊きは戦時中にお米が増えるご飯の炊き方ということで大きく報じられた。たしか町内会からの呼びかけがあり、新聞の家庭欄や婦人雑誌にも何度も取り上げられたのを読んだ覚えがある。いろんな著名婦人たちが自分の炊き方を披露していた。我が家も一回目は母と姉が立ちあって土鍋で炊いた。お米を炒って膨らませてから水を加えて炊く。量はたしかに増える。

楠公こと楠木正成公が苦難の戦いのときに、こういうご飯を食べて戦ったという話から、模範とするということなんだけど、いくらかの米を水でふやかして炊いて量があるように見えるよう工夫したってお腹がふくれるはずもなく。
うちの母はサツマイモが手に入ったときは芋粥にし、雑草を抜いてきたときは七草粥ふうに炊いていた。でもなにを入れて炊こうが戦時中に腹いっぱいになったことはなかった。

ともだちが減っていく(わたしの戦争体験記 17)

いままで気にしていなかったけど、わたしが4年生の1学期を終えて母の実家の山梨県に疎開する前に学校から去っていった子が多かったようだ。殺伐とした学期末だったと思うが、少しも覚えていない。ただ壽(ひさ)さんとさかえちゃんとの別れがショックだった。『小公女』のセーラのように孤独な境遇になると思うと怖かった。
その頃よく見た夢だが、わたしは座敷に幽閉されていて、ふすまを開けるとまた次のふすまがあり、警護の侍がいて開けたふすまは何度でも閉められる。まさに出口なしの夢だった。トイレの戸を閉めるのが怖くていつも開けたままにしていた。

なんで仲良くなったのか忘れたが堀江の芸者屋の娘の壽さんとしょっちゅう家を行き来する仲になっていたが、一家で引っ越すからと突然来なくなった。向かえに住んでいた1年上のさかえちゃんは、わたしが新町にきたときから引っ張りまわして遊んでくれたが、一家で南海沿線の粉浜に引っ越していった。粉浜では戦災にあわずに済んだそうで、戦後に探して会いにきてくれた。
その他、電気科学館の屋上で遊んだ子、体操の時間をいっしょにサボっておしゃべりしていた子はその後どうなったかしらと70年経ったいま思うのである。

姉(いつもこの日記にでてくる人)がピンク地に白い花が浮かんでいる布でワンピースを縫ってくれた。この服を気に入って夏中着ていたが涼しくなるころにはモンペに変わり、それ以来何年かモンペで暮らした。