スペンサーシリーズのころ

来月の読書会で取り上げる本、ロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズ「初秋」を探して押入れを調べたら、すべての段ボール箱を見て最後のに入ってた。おかげさまでいかにミステリ本を持っているか確認できた(笑)。これをどう処分するか考えなきゃ。1冊ずつ取り上げて読むとおもしろくて捨てるにしのびない。ここに整理するまでに一度以上捨てるか置いとくか検討してる本だから。

スペンサーとスーザンが好きで好きでしょうがない時代があった。
第1作「ゴッドウルフの行方」が1976年、翻訳者が古いタイプでミッキー・スピレーンのような言葉遣いのスペンサーなのである。だけどどこか古い探偵たちと違うので置いてあっていまにいたる。
その後、立風書房から出た「失投」と「誘拐」が飯島永昭訳で、それ以後の菊池光と全然違う。でもこの2作でスーザンと出会って、ホークとも印象的な出会い。わたしはスペンサーとスーザンに夢中になり、ホークかっこええやんとなった。
1982年に「初秋」が出た。わたしのスペンサー熱は「レイチェル・ウォーレスを捜せ」とで頂点に達した。「スペンサーのボストン」「スペンサーの料理」なんかも買いました。
阪神大震災があったころに参加していたミステリクラブで嫌われたのは、スーザンとサラ・パレツキーのV・I・ウォーショースキー(ヴィク)が好きだと公言してたからだろう。ヴィクの場合はファンクラブ主催だし(笑)。
「ゴッドウルフの行方」「失投」「誘拐」「初秋」「レイチェル・ウォーレスを捜せ」と続けて読んでみよう。

今夜もニコニコ動画『タイズ・ザット・バインド〜ジャパン・アンド・コリア〜』

ここ数日は日記のアップが遅くなっている日が多い。10時から12時までの番組「ニコニコドキュメンタリー」を見てから書いていた。詳しくは【ドキュメンタリーを中心とした世界の映像作品を配信する「ニコニコドキュメンタリー」がスタート。第1弾として、日韓問題を描いたオリジナル作品を配信する。】というもの。
わたしはニコニコ動画には関心がなかったし、こういう番組が始まるのも知らなかったが、相方が突然「これから見るけど・・・」というのでなにも知らずに見た。【第1弾、BBCワールドワイドから推薦を受けたイギリスの制作会社 BLAKEWAY が国際的な第三者の視点から「日韓問題」を描いたオリジナルドキュメンタリー。『タイズ・ザット・バインド〜ジャパン・アンド・コリア〜』】がすごく良かった。そのあとの討論も勉強になった。
まだ続く番組だけど、今日は「朴槿令(パク・クンリョン)氏インタビュー 聞き手:津田大介」だった。
昨日の『「ヘイトスピーチ」を考えよう』には作家の中沢けいさんが出ておられて、理路整然で元気いっぱいの発言に驚いた。
7日に『タイズ・ザット・バインド〜ジャパン・アンド・コリア〜』のエピソード2があって、8日は討論がある。両方とも楽しみだ。

ベ平連のころ

アメリカ軍の北ベトナムへの〈北爆〉に対する抗議活動市民団体「ベトナムに平和を!市民文化団体連合」(ベ平連)は1965年に発足した。のちに「ベトナムに平和を!市民連合」に名称変更。
なんで知ったのかどう連絡したのか覚えてないが、月に一度くらい出ていた通信を購読して、大阪でベ平連主催の講演会があるときは行っていた。朝までの徹夜集会というのに行って朝帰りして近所の主婦に嘲るような顔をされたのを覚えている。

65年の9月にサルトルとヴォーボワールが来日し、ベ平連主催の講演会があるというので頑張って入場券を購入し東京へ行った。そのころはヴォーボワールに夢中だった。講演会が終わって外へ出るとお二人と鶴見良行さんたちがおられたのをうらやましく見ていた。

だいぶ経ってからだと思うが、「関西ベ平連」というのが発足するというので、喜んでその会に行ったが、労働組合ぽい匂いを感じて遠ざかった。
その後は新聞を送ってもらいカンパするだけになった。

のちのち、阪神大震災のボランティアをしているときの会合で小田実さんが側におられてお互いに顔を見たのだけれどなにも言わずだった。それからしばらくして小田さんは亡くなられた。
吉川勇一さんが亡くなり、鶴見俊輔さんが亡くなって、ベ平連の中心を担った方々がいなくなっていく。ベ平連を実際に知っている人も少なくなっただろうから、できるだけ当時を思い出して書いておこう。

吉田喜重監督『エロス+虐殺』日陰茶屋事件

画面には「春三月縊り残され花に舞う」と大杉栄が詠んだ句が浮かぶ。

無政府主義者 大杉栄には妻の堀保子と以前からつきあっていた神近市子がいて、新しく出会った伊藤野枝とも関係ができる。
大杉と野枝には生活力がなく、市子が働いたお金を貢いで生活が成り立っている。
映画「エロス+虐殺」は1916年に起きた日陰茶屋事件を中心に描かれている。
実際の事件は葉山の日陰茶屋に滞在している大杉を神近市子が刺し重傷を負わせる。市子は海岸で入水自殺をしようとしたが死ねずに、ずぶ濡れ姿のまま交番に自首した。野枝は市子が来たときに東京へ帰って行った。

映画では、野枝が日陰茶屋に戻ってきて3人の長い会話と絡み合いになる。
3人の交わす会話と動き、特に日本座敷の障子や襖の開け閉め、次々と倒れていく白い襖に圧倒される。

昨日、この映画を見て「日陰茶屋事件」ってあの・・・と思い出した。関東大震災のとき、わたしの両親はまだ新婚で祖母とともに東京に住んでいたが、地震で家がつぶされ、近所の神社の大木の根元で夜を明かしたと言っていた。震災から年月が経って生まれたわたしだが、こどものときから震災と大杉栄たちのことを知っていた。苦労話をするときセットで語られたからである。主義者や朝鮮人に対する流言飛語が飛び交ったこと、大杉と伊藤野枝と甥の3人が甘粕大尉らに虐殺されたことは震災の苦労とともに語られ、昨夜わたしは久しぶりに亡き父母の話しぶりを思い出した。

篠田桃紅「一〇三歳になってわかったことー人生は一人でも面白い」

先に自叙伝を読んだので理解しやすかった。
本書は大きく4章に分かれ、4章が40項目に分かれたわかりやすい構成になっていて楽しく読めた。
高齢者の文章によくある青汁を毎日飲んでいるとか体操しているとかの健康法などいっさいなく、楽しく一人暮らししていることが伝わってくる。自然体なんだけど大きな声で自然体でやってますというところがない。
ずっと着物でとおしてはるそうだが、自慢するでなく人に勧めるでなく、自然に着物を着ておられる。ふと、剣豪 塚原卜伝が歳をとって静かに暮らしている食事中に斬りこまれ、卜伝は鍋の蓋を盾にして刀を止めたところを思い出した。ほんま、名人の暮らしをされていると感じた。
各章の終りにはまとめの言葉が入っていて、おっ!と思うところ何カ所もあり。
これ↓気に入った。

なんとなく過ごす。
なんとなくお金を遣う。
無駄には、
次のなにかが兆している。
必要なものだけを買っていても、
お金は生きてこない。

すごくおしゃれで楽しい人だ。
あと、恋の話を聞きたかったと思うのは野暮かなあ。
(幻冬社 1000円+税)

篠田桃紅『百歳の力』

先週の「週刊現代」に篠田桃紅さんのインタビューが載っていてた。今年4月に発行された篠田桃紅「一〇三歳になってわかったことー人生は一人でも面白い」(幻冬社)について語っていてすごく興味を惹かれた。
先週本屋に行ったら新刊書のところに平積みしてあって横にもう一冊「百歳の力」(集英社新書 2014年6月発行)があったので両方買った。
順番に読もうと「百歳の力」(103歳の現役美術家唯一の自伝!)を先に開いた。

桃紅さんは1913年、旧満州・大連生まれ、百歳を過ぎた今も現役で活動を続けている美術家である。5歳から父に墨を習いはじめた。父は「桃紅李白薔薇紫」からとって「桃紅」と号をつけてくれた。
当時は女学校へ行くということはすぐに結婚するということであり、いろいろな友だちの結婚を見ることになる。自分は結婚しないで生きていこうと決心し、お兄さんが結婚するので邪魔にならないように家を出る。書を教える場所を借りると生徒がたくさん集まった。住まう家も借りた。
戦争中は空襲から死を免れ、年老いた両親とお腹の大きい妹とともに疎開する。苦労の末に結核に罹るが女医さんの「治る」という言葉に勇気をもらって闘病する。
40歳代でアメリカに行くチャンスに恵まれた。当時のアメリカ行きの大変な事情が書かれていて勉強になる。

そしていま、103歳になる美術家は「ゲテモノ、という言葉があるけれど、それは当たっているかもね。でも、まがいものではないつもり。」と言い切る。
(集英社新書 700円+税)

サラ・パレツキー「セプテンバー・ラプソディ」(3)

後半455ページに出てきたエイダ・バイロンという名前にびっくりした。わたしは以前バイロン卿の娘エイダのことをコンピュータの歴史の本で読んで覚えていたから。2008年2月16日の日記だからきっちり7年前のこと。なんか因縁を感じてしまった。
本書はミステリなのでなぜかは明かせないが、読み進むにつれてなぜこの名前が使われたのかわかってくる。

「バイロンの頌歌」という章で、図書館にあった資料でエイダ・バイロンの名前を見つけたヴィクが検索すると、エイダはずっと前の時代の人だったとわかる。そしてヴィクは考える。マーティンはそれが誰かわかったのだと。ヴィクは独り言で文句を言う。「マーティン、どうしてわたしのためにパン屑を落としていってくれなかったの?」

本書はヴィクが調べて明らかにしていくロティとその幼年時代と成長の物語であるが、第二次大戦の前にヨーロッパで学び研究に励んだ女性科学者の物語でもある。その先駆者がエイダ・バイロンなんだなあとサラ・パレツキーにまた教えられた。
(山本やよい訳 ハヤカワ文庫 1300円+税)

田中康夫『33年後のなんとなく、クリスタル』の感想を書く前に

11月の終わりに買ってすぐに読んだ。いろいろと考えることが多い作品で、感想を書こうと思っているうちに年を越えてしまった。お正月にと思っていたら風邪をひいてアタマが冴えず今日にいたる。
その間にKindleで「なんとなく、クリスタル」を購入して読んだ。最初に読んだのは33年前で、おもしろがって読んだのを覚えている。その次は18年前に阪神大震災のボランティアで田中さんと知り合ったときに読んだ。

田中康夫さんとお会いしたのは阪神大震災から1〜2年あとの〈週末ボランティア=週ボラ〉だった。代表の東條さんが活動後の集会時に田中さんに話をしてもらうことにした。〈週ボラ〉メンバーはもひとつ気が乗らないようで、わたしだけが田中さん好きと言ったのを覚えている。そんなことで、その後に田中さんが〈週ボラ〉の活動に参加されたときは東條さんが、わたしといっしょに行動するように配慮された。暑いときで汗を拭き拭きわたしと男子2人と4人で仮設住宅を訪問した。その道すがら、わたしがそのころ腹が立っていた〈おばさん〉という呼び方にモンクを言ったら、「では、ぼくはS嬢と呼びましょう」と言われて、それ以来わたしはS嬢と呼ばれることになった。当時の雑誌「噂の真相」連載の「ペログリ日記」にS嬢とあるのはわたしです。よっぽどうれしかったとみえていまだに言っている(笑)。

二度目は震災から2年目の記念訪問日だった。西神駅に集合した〈週ボラ〉メンバーたちは、これから出かける仮設住宅訪問についてレクチャーを受ける。初めての人がいるから「必ず女性の名前を呼ぶこと、おばさんと言うたらいけません」という注意もある。
そのとき田中さんとW嬢(「33年後のなんとなく、クリスタル」のメグミさん)がいて、わたしと3人で出かけるようにと指示があった。集団から少し離れて3人で雑談しるとき、わたしは田中さんにヨイショするつもりで、「ご本読みました」と言ったまではいいが、続けて「されどわれらが日々」と口から出てしまって、大笑いして大謝り。真面目な場での大笑いで真面目な人たちから顰蹙を買った。「されどわれらが日々」は読んだけれどあまり好きでなく、なんでそのとき出てきたかわからない。
その日は3人で神戸ワインの工場の横を通ってずっと奥にある仮設住宅を訪問して、年取った独り住まいの女性の話を聞いた。田中さんたちはきちんと座って、その女性の言葉に相槌を打っておられた。車の中でもらったチョコレートがうまかった。

今日は前書きだけでおしまいです。

田中康夫『なんとなく、クリスタル』をKindleで購入

「33年後のなんとなく、クリスタル」を買ってもう1カ月近いんじゃないかな。とうに読み終わっているのだがまだ感想を書けてない。33年前のを読んでからにしたいのと、長いあいだ読んでいるP・D・ジェイムズから抜け出さないとどうもならない。ようやく大作「原罪」を2回読んで納得できたので手放せそう。

さっき、ツイッターで「なんとなく、クリスタル」(河出文庫)が値下がりとのツイートを読んで、タイミングのよいことに驚ききつすぐに購入した。わたしのKindleはずっと寝てたので、起こしてご飯を食べさせてやったらようやく動き出した。片付けがすめば即読み出すつもり。
昔読んだことがあるけど、33年後の物語を読んでいたら、昔はどんなだったかしらと思うこと多しで、やっぱりまた読みたくなった。

阪神大震災の2年後、「週末ボランティア」のメンバーだったわたしは、田中康夫さんといっしょに仮設住宅に住む被災者のお宅を訪問した。一回目は暑いときで二度目はめちゃくちゃ寒い日だった。歩きながらや車中やいろんな話をしたが、わたしが「仮設住宅訪問では決して女性をおばさんと呼んだらいけません」と東条さん(リーダー)が言うてるのに、同僚のボランティアのわたしにおばさんと呼ぶ人がいるとぼやいたら、それではとS嬢と呼んでくれた。当時の「噂の真相」連載の「ペログリ日記」にS嬢とあるのはわたしです(笑)。

『オリーブ』を読んでPHSを買った

最近ツイッターで「オリーブ」(雑誌名)という文字をよく目にする。わたしは当時でさえ「オリーブ少女」の年齢をはるかに超えていたが、楽しい雑誌なのでよく買って読んでいた。いま本棚に2冊残してあったのを開いたのだが、1冊は1999年4月発行の超特大号で中原淳一の紹介ページがある。やっぱり「ひまわり少女」から「オリーブ少女」につながっていたんだ。
もう1冊は携帯電話のページに熟読の跡がある。2000年の7月発行で表紙に「今の時点でベストはどれだ? ケータイ、ピッチ大研究」。これを読んでわたしはPHSを買いました(笑)。お薦めのデザインがよかったから。ねばってお店の奥から出してもらったっけ。

ほんまに携帯電話を買うのが遅れていて、なにを買っていいか悩んでいた。神戸へボランティアに行ってたときは相方の黒くて重いのを持って行ってた。小グループに分かれたときの連絡用に携帯電話持ってるよと言うと、高い電話料を個人経営の女性に払わすわけにいかないと律儀に使ってくれなかったっけ。阪神大震災が1995年だからこのときは97年か。
それでもって、わたしが最初の携帯電話を持ったのが2000年なのね。乙女ちっくなオリーブ少女の話から携帯電話の話になるなんてさすがだな(笑)。