おもろかったよ、実験的演奏

今日のSUBは歳森 彰トリオの日なので、いつものように出かけようと思って午後を過ごしていたら、ツイッターに弦牧さんの書き込みがあった。〈歳森 彰(p)トリオ 財 盛紘(b) 弦牧 潔(d) 今回でこのトリオは一旦ライブは休止です。皆さん是非とも来て下さい。〉びっくりして、〈えっ〜 行きますけど〜 〉とRTしたら、事情は来てから説明するとの返信あり。

歳森 彰トリオ2回目。お客は少ないが好きなひとばかり。はしもっちゃんが久しぶりにきて、何カ月分も溜まっていたおしゃべりが噴出(笑)。そして演奏の合間には歳森さんと3人で無音ストリートのことで真面目な会話。

先月にも増して歳森さんが財さんと弦牧さんに型破りの演奏を要求して楽しかった。客にもかしこまらないで前で聴くようにというので、わたしがドラムとベースの間に挟まるように座って聴いた。これはよい。いつのまにかいっしょになってハミングしたりスキャットしそうになったり。後半はカウンター前の椅子でちょっと見下ろす感じで聴いた。からだの反応が違ってくる。

〈今日でライブ休止〉と聞いて、歳森さんが京都の「無音ストリート」の活動が忙しくて大阪に来られなくなるのかなと思ったのだが、ごめんなさい、大違いだった。8時半からの有料ライブは休止して、その日は練習を5時から8時までする。で、その練習を聴きたかったら来てくれということなのだ。歳森さんの真剣な気持ちを感じた。西山さんがやり残したことを歳森さんのやり方で継いでいくのだろう。わたし?もちろん練習を聴きに行く。客もいっしょに若者を育てる(笑)。

ヴィク・ファン・クラブ20周年

当ブログの「ヴィク・ファン・クラブ アーカイブ」を読んでいたら、いつも会報づくりのしんどさと人が集まらない例会について書いている。こうして毎月ぼやきながら会報を編集して送って、シャーロック・ホームズで例会の時間を過ごしてきて今月終わったら20年。
会報のほうはマンネリ化を避けたいと思いつつ作ってきたが、特に今年の311以降は会員みんなの考えが深まり、それが会報に反映されていてすごいことになっている。

今週の土曜日に20周年記念例会をすることにしたら、関東の会員が2人来てくださる。一人は日帰りで、一人はホテルをとっている。ありがたいわぁ。関西の人も数名が気張って来てくださる。うれしいなぁ。

今日は来月号の原稿が郵便でとどいた。A4にきちんとプリントしてあるが、引用の新聞記事を入れると5ページ!! 今月号を出したところへ2人の原稿が届いているので3人目。来月号はどうなるかコワイ。
とりあえず、明日は美容院へ行ってきれいにしてくる。

マキノ雅弘監督『昭和残侠伝 死んで貰います』

「昭和残侠伝」シリーズの7作目。池部良と高倉健のまなざしやしぐさや声にぞくぞくした。いままで見たなかでいちばん気に入った。
いつもと同じように我慢を重ねたふたりが、最後に刀を手に斬り込むというお定まりのストーリーである。ふたりの間に漂う空気、お互いを思いやって見つめあうところ、そして手を重ねるシーン。そして最後に斬り込んで敵の刀に倒れた風間重吉(池部良)を胸に抱き寄せる花田秀次郎(高倉健)。いつもよりも濃密なふたりのシーンにしびれまくり。

東京深川の由緒ある料亭で生まれた秀次郎は、父が後妻をめとり妹が生まれると家を出て渡世の世界で生きる。まだ若い彼は賭博場でイカサマにひっかかり無一文となり銀杏の木の下でうずくまっていた。そのとき通りがかったいくえ(藤純子)が声をかける。それから何年かして秀次郎はイカサマを暴露して乱闘ののち捕まり服役する。
関東大震災があり料亭が立ち行かなくなるところを板前の重吉が支えている。秀次郎はもどってきて板前の見習いをはじめる。芸者で一本立ちしたいくえが現れる。
深川をシマとしている昔ながらの寺田一家に新興のヤクザの駒井がちょっかいを出して取ろうとしているときに、相場に手を出した妹の婿が駒井から借金して料亭の権利書をとられてしまう。その権利書を取り戻しにお金を持っていった寺田の親分が帰り道で殺される。
いままで我慢を重ねてきた重吉と秀次郎は刀を手に斬り込む。
加藤嘉、荒木道子、中村竹弥など、今は亡き俳優たちが懐かしい。

川端康成『乙女の港』(少女の友コレクション)

これで何度目かわからないが何度も読んだ本。小学校2年のときにはじめて読んだのだが、なぜ覚えているかというと、1年生のときは絵本を読んでいた記憶があるから。2年生くらいから「本」を読み出した。「小公女」「小公子」「家なき子」などおもしろくて、雑誌の読めるところ、理解できるところをどんどん読んでいった。とにかく父と兄姉2人ずつの本があったから、なんでも読んだ。
そのなかでいまもお気に入りが「リンバロストの乙女」「小公女」「あしながおじさん」、吉屋信子の「紅雀」と本書「乙女の港」なのである。
実業之日本社から出ていた「乙女の港」の原著はどこかへいってしまい、長い間もう一度読みたいと思っていたのが20年くらい前に国書刊行会から大型本で出た。わーわー言って買って何度も何度も読んだ。ところが読み飽きたってところもあって欲しがる人にあげてしまった。その後、また読みたくなったときどれだけ後悔したことか。

先日、ツイッターで「少女の友」を出していた実業之日本社から文庫化されたことを知り、昨日買いにいったというわけ。原著と同じ中原淳一の挿絵が入っている。これもうれしい。昨夜と今日と、もう二回読んでしまった。ツイートしてくださった人に感謝。
「少女の友」に1937年6月から38年3月まで連載され、単行本になったのは38年4月。これが昔うちにあった。

横浜のミッションスクールに入学したキュートな大河原三千子と物静かな5年生の洋子との愛の物語なのだが、そこに三千子を追い求める気の強い4年生の克子がからむ。
三千子は母と三人の兄の末っ子で無邪気に育った子。洋子は生まれたときから母が病んで入院しているため母の顔を見たことがない。その上に父の事業がうまくいかず邸宅を手放すという不幸がおそう。洋子は不幸な人生を生きつつ信仰と美を求める。克子は裕福な家の子で気が強くなんでも自分の思い通りにしようとするが、思い通りにいかないことがあるのを知る。
エキゾチックな横浜と避暑地の軽井沢を舞台に繰り広げられる女性三人の愛の物語。
(実業之日本社文庫 762円+税)

ベンジャミン・ブラック『溺れる白鳥』(2)

クワークはくたびれたどうしようもない男として描かれているのだが、女性からしたらかまってやりたくなる男なのだ。ボストンからフィービの祖父の3人目の妻で未亡人のローズがきて、なにくれとなくクワークの世話を焼く。
また、クワークは死んだディアドラの共同経営者ホワイトの妻ケイトを訪ねて話を聞くのだが、ふたりの間にはもやもやとした空気が立ちこめる。

だが、クワークの実の娘のフィービ、【彼女の鋼のような冷たさの前に、クワークはたじろいだ。やはりデリアの子だ。日ごと彼女そっくりになってくる。デリアは彼が会ったなかで、最高に意志の強固な女だった。最初から最後まで、鋼のようだった。そして彼が何より愛していたのは、そういう部分だった。すばらしく美しいが、自ら苦しみを抱え、人を苦しめる女。】クワークはかつてデリアというすごい女性を愛してしまった。いまは同じように冷たい娘のフィービをどうしようもなくて苦しんでいる。

フィービとローズの会話は何度読んでもおもしろい。なんで女たちの会話をほんとみたいに書けるんだろう。【フィービは考えて、言った。「あなたのこと、尊敬してます」するとローズは頭をさっと引き戻し、笑い声をあげた。鋭く張りつめた、銀のように冴えた声だった。「ほんとにねえ。たしかに、あのお父さんの娘だわ」】

【ローズはしばらく黙って彼を見すえていた。「言ったでしょう、ずっと前に。あなたとあたしはおんなじだって——心は冷たく、魂は熱い。あたしたちみたいな人間はたくさんはいないのよ」】ここんとこもいい。クワークをわかっている女性がいると思ってほっとした。
(松元剛史訳 武田 ランダムハウスジャパン 900円+税)

ベンジャミン・ブラック「溺れる白鳥」(1)

ベンジャミン・ブラックの本は2009年5月に「ダブリンで死んだ娘」を読んでいたので迷わずに買った。「ダブリンで死んだ娘」というタイトルがよかったから読んだのだが、ほんとに読んでよかった。現代アイルランドを代表する作家のジョン・バンヴィルが別名で書いているミステリということで、これからジョン・バンヴィルをチェックすると書いているがまだしてなかった(恥)。

前作と同じダブリンの〈聖家族病院〉病理科の医長で検死官のクワークが主人公である。古い友人の医薬品セールスマン、ビリー・ハントが電話で妻が自殺したという。カフェで会うとハントは妻の体を解剖しないでくれと頼む。耐えられないと。
ディアドラ・ハント(職業上の名前はローラ・スワン)はビューティ・パーラーの共同経営者だった。ダブリン湾に身を投げた彼女はそこまで乗ってきた車を停め服をきちんと埠頭の壁際に畳んでいた。クワークはハントの頼みをハケット警部に伝える。

ディアドラは父から虐待をうけるなど厳しい環境で育った。そしてハントと結婚して、仕事の才能があるのに気がつく。共同経営者のホワイトは女につけこむタイプで、いつの間にかディアドラは夢中になってしまう。
クワークの娘フィービはずっとディアドラから化粧品を買っていた。彼女の死後に店に行くとホワイトに出会いパブに誘われる。やがてフィービはホワイトを自分の部屋に入れる。ホワイトは事業は失敗するしとんでもないやつだが、ディアドラもフィービも難なく手に入れしまう魅力がある。クワークはフィービとホワイトの仲を知り心配する。

クワークは前作では酒飲みだったが、今回は禁酒している。彼が酒を飲むのは週に一度フィービとホテルで食事するときだけである。フィービは孤独な人生を送っている女性で、途中で叔父から父親になったクワークには特に冷たい。

ストーリーにはもちろん惹かれるが、それよりも1950年代のダブリンの描写がすごくいい。荷馬車がギネスを運んでいる道路とか。道路で倒れた馬の目の描写とか。憂鬱な小説なのだけれど手放せなくてここ数日繰り返し何度も読んでいる。
(松元剛史訳 武田 ランダムハウスジャパン 900円+税)

明け方の夢は地震の夢

今朝の地震の夢はリアルだった。がたがたっと揺れて目を覚まし「地震やっ」と叫んだ。目が覚めたときも揺れていたみたいで、いまになってもほんまに地震があったような気がする。さきに起きていた相方が地震なんかなかったでと言ったのが信じられない。それでネットで「履歴」を見たのだが、もちろん今日は関西に地震はなかった。
前の道路をトラックが通って荷物ががたんと音を立てたのか、強い風が吹いてベランダのドアががたがたいったのかもしれない。とにかくがたがたっと大きな揺れだった。
明け方に見る夢は正夢だとこどものころにだれかに教えてもらった。それからたまーに合ってたと思うことがあったが、最近は夢を見ていたことは覚えていても、夢の内容は覚えていないことが多い。
今朝は地震の揺れで目を覚ましたのだからどうもこうもない。正夢でないことを祈るのみ。

月の光

さっき空を見たら、真上にある満月が雲の中に入ったり出たり。まわりはビルだらけだけど月だけを見れば神秘な光を放っている。

昨日は松尾大社で素晴らしい体験をした。ライトがいろんな色や形を楼門や舞台にあてている他は月の光だけ。月の光を遮るのは大きな木の葉叢だけ。そばにいる人の顔も判然としない。複数の知り合いが来ていたのに確かめられず、帰ってからツイッターやミクシィでそこに居たのを知った。
それでふと思ったんだけど、昔は恋する人の存在を香りで判断したのだろう。だから香というものが大切だったんだろう。匂宮、薫宮と名前からしてそうだなんだもんと、ふんふんとうなづいている。「源氏物語」とか何十年ぶりに読みたくなった。

大阪にもどってきて地下鉄から上がると、いつもは「帰ってきた〜やっぱり新町はええなー」と思うのだけれど、昨日だけは「あれっ、ヘンな匂いがしてるなー、松尾とえらい違うなー」と思ったのだった。はは、いい空気を吸った後だから異臭に敏感になっておった。

松尾大社楼門ライブ

松尾大社(まつのおたいしゃ)という名前くらいは知っていたがどこにあるかも知らず、楼門ライブのフライヤーをもらって古風でモダンなデザインに惹かれた。またこういう場所でのYA△MAさんのDJも聴きたくて、最近クラブに興味を持ち出したY嬢を誘って行った。
阪急電車の桂で嵐山行きに乗り換えて松尾で下車。駅を出るとひろびろとした道からすぐ大きな赤い鳥居がある。まず駅前食堂で腹ごしらえして、鳥居をくぐるとまた鳥居があって楼門にいたる。せっかく行くのだから神社の見学をしようと楼門をくぐった。昔からの信仰の場なのだ。いま検索したら701年勅命により現在地に社殿を造営とあった。背後に松尾山がある神社は神々しい。お百度を踏んでいる人がいる。
お酒の神様でもあるようで境内に大きな酒樽がおいてある。お酒の資料館は4時までということで見られなくて残念。

ぼつぼつ人が集まってきた境内にYA△MAさんがお子さん2人といた。話しているうちにY嬢が来たので紹介した。
だんだん暗くなってきてライブがはじまった。石畳の上に防寒用に持っていたショールを敷いて座った。だんだん寒くなる。寒いから気をつけてと言われていたので、ショールのほかパーカとカイロを持って行ったのが役に立った。Y嬢がそこだけ電気がついて明るいところでお酒を買って来てくれたのをいただいたら体の中から温まってきてありがたかった。

ライブがそこそこやったところで、DJ YA△MAさんが登場。この場に合った一種神々しい音からモダンな音へと変わっていく変幻自在な音に酔った。月が上ってきて、真上には星が光って、寒いというより冷えてきた。DJ KAZUMAさんに替わったら宗教性が強調されているような感じで、ふわ〜っと揺れる。最後は aMadooのライブ。だんだん座っていた人たちが立って踊りだした。

夜の野外だから5時半から9時前までちょうどいい時間だった。月光の下でのライブ。楼門にライトがあたって神秘的。大きな木があって後ろの山もぼんやり見える。暗くて人の顔を判別できないほどだ。
帰りに空を見上げたら月とともに木星が輝いていた。うちから月を見るとビルの上になるが、ここでは木々の上である。風情があるわ。

京都からの特急電車が満員で普通に乗って本を読みながら帰った。地下鉄御堂筋線のホームに降りたら、なんと朝から他のイベントに行っていた相方とばったり。しかも、わたしと会う前に松尾に行ったカップルと会ったんだって。kumikoさんかと思ったんやけどとのことだった。やっぱり暗かったせいね。

みずひきぐさ

思いがけず姉の庭に水引草が咲いていた。くちなしの木の根元に2本とほととぎすの鉢に同居して1本。近所を散歩していて鉢に植えたのを見かけることがあるが今年はまだ見ていなかった。
こどものときに母親の実家の近所の竹やぶの横に流れる小川のほとりに咲いていて、その寂しそうな感じに自分を重ね合わせていた。いや、ほんま、あたしって寂しい文学幼女だったの(笑)。
のちに立原道造の詩「のちのおもひに」でみずひき熱はいっそう高まった。

 立原道造 のちのおもひに
  夢はいつもかへつて行つた 山の麓のさびしい村に
  水引草に風が立ち
  草ひばりのうたひやまない
  しづまりかへつた午さがりの林道を