エイドリアン・フォゲリン『ジェミーと走る夏』

アメリカのフロリダ州タラハシー、12歳のキャスは姉のルー・アンとまだ赤ん坊のミッシーと両親と暮らしている。ある夏の日、お父さんは隣家との境に古い板でフェンスを作っている。黒人が隣の家にいるのを見たくないというのだ。隣家にはミス・リズが住んでいたが少し前に97歳で亡くなった。キャスと女の子同士の話をしていた楽しい人で14匹の猫を飼っていた。そのうち13匹は近所の人に通報されて連れ去られたが1匹だけ残っていてキャスはご飯をあげている。ミス・リズはキャスに「ジェーン・エア」という古い本をくれたのだが、まだ読んでなかった。ミス・リズが亡くなったのだから読まなくてはと思う。
フェンスの板の節穴から隣家をのぞくと、向こうにばれてしまう。そしてアフリカ系のジェミーとアイルランド出身の祖先を持つキャスは言葉を交わす。ジェミーはグレースおばあちゃんとお母さんと赤ちゃんのアーティーでお父さんは亡くなっている。

明日の朝いっしょに走ろうと約束し、翌朝ジェミーとキャスは二人とも負けず嫌いでどんどん走り、お互いを認めあう。ジェミーのおばあちゃんはキャスを可愛がって、いろんなことを教えてくれる。おばあちゃんとの会話からいろんなことがわかっていく。おばあちゃんはバス・ボイコット運動に参加した話をしてくれる。
【「・・・あたしは、もう、いちばん前の席からたちのくつもりはなかった。バスのうしろからそこまでの旅がどれほど長かったことか」】
そこまでいっても、黒人と白人は水と油みたいなもんで、いくらかきまぜても混じり合うことがないと思っていたおばあちゃんは、キャスとジェミーを見て、いつか変わる日がくるかもしれないと思う。

しかし、父親の偏見はちょっとやそっとでなおるものではない。少女たちはないしょでつき合うことにして、フェンスの両側から「ジェーン・エア」を声を出して読み合う。物語をとおして二人は恋愛や人生を語り合い成長していく。

キャスの母は子どもの擁護施設で料理や雑用をしている。ジェミーの母は大学で学んだ看護士である。
ジェスの一家は貧しくて父親のいまの仕事だって黒人にとられそうになっている。父親の偏見は変わりそうになく、ある日隣家と親しくしている娘を見て交際を禁じる。二人はミス・リズのお墓の側で「ジェーン・エア」を読み続ける。

さまざまな事件があってそれを乗り越え、フェンスがいらなくなって気持ち良く終わる。ていねいに書かれており、アメリカの現状がよくわかる。こういう児童書が出版されていることにアメリカの明るさを感じる。2000年に書かれ、日本での出版は2009年。
そして「ジェーン・エア」を読み終わった二人が図書館でシャーロット・ブロンテの本を探していると同じブロンテのエミリー・ブロンテ「嵐が丘」があるところも感動的。話をばらし過ぎてすみません(笑)。
(千葉茂樹訳 ポプラ社 1400円+税)

エイドリアン・フォゲリン『ジェミーと走る夏』を読む前に

児童文学「ジェミーと走る夏」に「ジェーン・エア」をキャスという少女が読んでいるところがあるんだって。相方が読みながら笑っている。昨日と今日とずんずん読んでさっき渡してくれた。この本を読んだおかげでロチェスターさんがどんな人かわかり、お屋敷の火事やインドへ行く従兄弟のこともわかったそうな。わたしが二言目には「ジェーン・エア」と「高慢と偏見」と言っているからうすうすはわかっていたんだけど、この本で具体的に知ったみたい。さっきお茶しながら、なんで「ジェーン・エア」やねんという話をしていたが、だから乙女やねんというしかない。

ちょっと開いてみたら、隣家のおばあさんのことがあった。ミス・リズは今年97歳で亡くなるまでポーチに座って、キャスに「女の子同士」のおしゃべりをしましょうと誘ってくれた。こんなに眠くなければ読みとおすんだけど、昨夜は5時まで起きてたので今夜はもうあかん。これだけ書いておこう。いくつになっても「女の子同士」の会話を楽しめる女子でありたい。いまのわたしはどこへ行ってもガールズトークまたは魔女会議と名付けたおしゃべりをしている。ミス・リズに続いて97歳まで続けようか。

ジャン・ジュネ『花のノートルダム』

「花のノートルダム」をはじめて読んだのは10代だったと思う。サルトルの「聖ジュネ」(この本でひとつだけ覚えているのはコンドームがあればジュネは生まれてこなかったという一行だ。)を読んでジュネを知ってそれで堀口大学訳の本を読んだ。サルトルが褒めているから読まなきゃと思って読むつらさ(笑)、最後まで読み通したかも覚えてない。だから内容を覚えているわけがない。

今回、鈴木創士さん訳の本がいいというので買った。少し前に鈴木さん訳のランボー全詩集を読んだらすごく読みやすい。これなら「花のノートルダム」を読めると思った。
そして昨日読み終わって、今日は気に入ったところをあちこち読んでいる。それで思い出したのが、アンドリュー・ホラーラン「ダンサー・フロム・ザ・ダンス」とジェームズ・ボールドウィン「もう一つの国」だった。3冊とも恋人どうしの出会いのシーンがいい。ゲイ小説を一言で言えば「出会いシーンの素晴らしさ」だと思う。

最初のページのセンテンスの長い文章にまず惹き込まれ戦慄した。読んでいくと「ディヴィーヌが死んだ」という文字が。ディヴィーヌは死んだのだから詩人は彼女のことを物語ることができる。私(ジュネ)は気分にまかせて男性的なものと女性的なものをごっちゃにしてディヴィーヌのことを語りはじめる。ディヴィーヌは男で美しい女でオカマだ。

ディヴィーヌは20年ほど前にパリへ現れた。夜のパリを彷徨う彼女をあらわしたたえる言葉が続いていく。ディヴィーヌは腹と心が飢えていて屋根裏部屋へ向かっていると、ひとりの男が向こうから歩いてきた。
【「おお、失礼」、と彼が言った。「悪いねえ!」彼の息から葡萄酒の臭いがしていた。「どういたしまして」、とオカマは言った。通り過ぎようとしていたのはけちなミニョンだった。】そして、彼らは屋根裏部屋へあがる。ミニョンのしゃべり方、煙草に火をつけて吸うそのやり方から、ディヴィーヌはミニョンが女衒(ヒモ)であることを理解した。そして彼女はうっとりと「ここにいてね」と言った。ディヴィーヌはブランシュ広場であくせく働きミニョンは映画に行く。ミニョンはごろつきなのに美しい男で生まれながらのヒモだった。
そしてミニョンと花のノートルダムが出会う。このシーンもめちゃくちゃいい。

「花のノートルダム」はわたしの言葉では言い表せない作品だ。ひたすらひたっているうちに言葉が出てくるだろうか。ごろつきやヒモやオカマや、臭いや汚れや汚物や殺人や牢獄なんぞが美しく光っている。
(鈴木創士訳 河出文庫 1200円+税)