ミス・リード『村の日記』

ミス・リードのフェアエーカー村シリーズ3冊目。最初の2冊「ドリー先生の歳月」と「村の学校」は知人に頂いた本で、これからの2冊は1冊目を回した友人が若いときに買ったのが家にあったと貸してくれた本である。偶然だが出版順に読めてよかった。
目次を見たら一月から十二月までの愛想のない文字が並んでいる「村の日記」だが、内容はこんな小さな村なのに多彩だ。

休暇が終って年が変わり新しい学期がはじまった1月、一人の生徒が猫を2匹学校に持ってきた。1匹は行き先が決まったがもう1匹は決まるまでミス・リードが預かることになる。結局、その猫ティビーはミス・リードの一人暮らしの相棒になる。
土曜日に村の若者がオートバイ事故で死んだ。用務員のウィレット氏の言葉。
【「・・・家族が息子を失っただけじゃないね。村の誰もが取り残されちまったのさ」(「ゆえに問うなかれ、誰がために鐘は鳴るやと」何世紀もの昔に、ジョン・ダンが歌ったとおりを、ウィレット氏がくりかえしたような感じがして、私の心にささやきかける声があった)】
続いて【「鐘は汝がために鳴るなれば」「誰ひとり孤島たりうる者あらじ」】とジョン・ダンの詩が続く。
ミス・クレアは彼のためにセーターを編んでいたが、編み上がればクリケットクラブに寄付するという。クラブでゲームに優勝した人の賞品にすると。
この時代、第二次大戦終了後の村の様子が書かれているのだが、老人たちは地主階級の支配していた時代を知っている。すでに政府によって社会保障などがなされているが、昔は領主が福祉を担っていた。「高慢と偏見」でもダーシー夫妻は領民のことを考えて行動しているのがよくわかる(P・D・ジェイムズ「高慢と偏見、そして殺人」にそういうことが詳しく書かれている)。そんなことを考えるのも楽しい読書だった。
(佐藤健一訳 角川文庫  1976年 505円+税)

ミス・リード『村の学校』

先月読んだ「ドリー先生の歳月」のドリー先生(ミス・リードはミス・クレアと書いている)は、自分が学んだフェアエーカー村の学校の先生になり長く働いていたが、授業中に倒れて退職する。その後も村の両親が残した家に住み続け、体調がよくなってからは学校行事の手助けなどで登場する。
ミス・リードはその学校のもう一人の先生であり校長先生でもある。ミス・リードは校長先生だけに威厳があり、しっかりと子どもたちとまわりの人たちの面倒をみるし、自分の意見を持っている。

本書はミス・リードが語る「村の学校」のお話。〈第 I 部 クリスマス学期、第 II 部 春学期、第 III 部 夏学期〉。秋の「新学期の朝」からはじまり夏の「学期の終わり」まで。全児童数40人の小学校に新入生が3人が入学。その子どもたちと村の人々の暮らしが綴られている。時代は第二次大戦直後でまだ村に新しいものは入ってこず、村人は昔ながらの生活をしている。
ミス・リードは人間観察能力に優れていて、特に校務員のミセス・ビリングルの描写がするどい。実際にこういう人を相手に苦労したんだろう。ミス・クレアの後に入った先生のミス・グレイは、ともに音楽を愛するアネット氏と婚約する。
小さい村の一年、いろんなことが起き波紋が広がることもあるが、歳月を穏やかに迎えて見送る。いまは過去の桃源郷みたいなイギリスの田舎が懐かしい。
(中村妙子訳 発行:日向房 発売:星雲社 2000年 2400円+税)

イーヴリン・ウォー『回想のブライズヘッド 上下』(2)

いま三度目を読み終ったところ。深い作品だとため息をついている。
〈わたし〉チャールズ・ライダーは、ブライズヘッドを所有するマーチメイン家に次男セバスチャンの親友として迎え入れられる。父は第一次大戦に所領の使用人たちを編成した部隊を率いてヨーロッパ戦線に出て行き、戦後は愛人とヴェニスで暮らしている。カトリックの家系であり特に母は敬虔な信者で、邸宅の庭には礼拝堂がある。
〈わたし〉には親族が父一人しかいなくて、裕福な父の仕送りでオクスフォードで学んでいる。セバスチャンと知り合って酒を飲む仲間がいる快楽を覚えた。
休暇でロンドンの父の家にいると、セバスチャンからケガをしたと電報が届き慌ててブライズヘッドへ赴く。迎えに来たのは妹のジューリアでセバスチャンそっくりな美女だった。セバスチャンは常に酒びんを離さないようになっている。
酒代をセバスチャンにせびられ渡したことでマーチメイン夫人になじられ、ブライズヘッドから追放された〈わたし〉は、勉学よりも画家に向いていると自分で決めてパリへ留学する。建築物専門の画家になるつもりだ。
セバスチャンは外国へ出たときに母が手配した同行者から離れて、定めなくさまよい酒を飲んでいる。病気の母がセバスチャンに会いたがっているとのことで、〈わたし〉はカサブランカへ飛びフェズへ行く。探し当てたセバスチャンは送金を受け取っており、ひたすら酒を飲む毎日を続けている。しかし人柄の良さでまわりの人たちには愛されている。イギリスに帰る気はない。

ジューリアは俗物の政治家レックスと激しい恋をして結婚して何年か経った。
〈わたし〉は友人の妹シーリアと結婚して子どもがふたりでき画家として名をなしている。シーリアは理性的な女性で夫を売り出すことに専念している。〈わたし〉は2年間メキシコから中部アメリカにかけて絵を描く旅を続けニューヨークのエイジェントに送っていた。ニューヨークで待つ妻と会って、船便でイギリスに帰ることにする。シーリアは乗船するとすぐに社交にかかる。しかし船は大荒れでシーリアはベッドから離れられず、〈わたし〉はジューリアと偶然出会う。そしてはじまる恋。「芸術に社交界のシーリアと、政治に金のレックス」と相手のあるふたりの恋は燃え上がる。

こっちが思ったような結末にいかない。そうだよなぁとも思える。
わたしは宗教をもっていないけど、なんとなく最後のジューリアの決断はわかるような気がする。イギリスにおけるカトリック、これもわからないことだけど、ちょっとだけわかったような気がしてきた。
【「月が上がって沈むまでの人生なのだわ。そのあとは闇なのね」】
(小野寺健訳 岩波文庫 上700円+税、下760円+税)

イーヴリン・ウォー『回想のブライズヘッド 上下』(1)

久しぶりの岩波文庫は文字が大きく行間も広くて読みやすかった。イギリスの作家というだけで、タイトルしか知らなかった本が、単純な物語ではないが、大好きなイギリスのお屋敷ものだった。イーヴリン・ウォー(1903-1966)の1960年の刊行された本で、解説には「彼の代表作として定評のある突出した名作」とあった。おもしろく読んで二回目を読んでいるところ。

〈序章ブライズヘッドふたたび〉第二次大戦で軍務についた39歳の〈わたし〉チャールズ・ライダーは、中隊長として屈強で希望にあふれた一中隊を率いていた。グラスゴー市のいちばんはずれにある宿営地にいたのだが、だんだんやる気がそがれていく。
中隊が列車で次の宿営地に移動することになる。トラックに乗り換えて着いたところで「ここは何という所だ」と部下に聞く。なつかしい名前が答えられる。「ここには前に来たことがある」と〈わたし〉は言う。
〈第一部 われもまたアルカディアにありき〉は、註に「すべて知っているという意味もあって墓碑銘に用いる」とあった。再読して納得。
回想がはじまる。20年以上前の6月にセバスチャンとここへ来たのが最初だった。
〈わたし〉はオクスフォードのコレッジの角部屋に住んでいた。酔っぱらったセバスチャンが窓から顔を入れて嘔吐する。それが縁でふたりはつきあい始める。20年以上前の6月のある日、どこへ行くとも言わずに車を走らせ、途中で休んでワインとイチゴを楽しみ、着いたのがセバスチャンの家族が住むブライズヘッドの侯爵家のお屋敷だった。
それから何度ここを訪れたことだろう。セバスチャンには母と兄と妹がふたりいて、父は別居している。
(小野寺健訳 岩波文庫 上700円+税、下760円+税)

メアリ・バログ『うたかたの誓いと春の花嫁』

翻訳者の山本やよいさんに新訳書を2冊送っていただいた。「キリング」と本書で、いつもなら「キリング」に飛びつくのだが、体調のせいでロマンスのほうを先に読むことにした。
訳者あとがきに「華麗なるリージェンシー・ロマンス」とあった。はじめて知った言葉なので検索したら「リージェンシー・ロマンスとは英国の摂政時代を舞台にしたロマンスのことです」とあって、皇太子ジョージ(のちのジョージ4世)がイングランド国王に代わって摂政となった時代だが、広くはヴィクトリア時代の前まで入るそうだ。そして「リージェンシー・ロマンス」とは、ジェーン・オースティンの小説のようなロマンスをさすとあった。これで今日はすごく勉強した気分(笑)。

甘口ではあるが手に取るとやめられない。夜遅くまで読んでなにをしていることやら(笑)。主人公のヴァネッサがジェーン・オースティンの「高慢と偏見」のエリザベスを3倍にしたくらいの気の強さなのだ。相手のエリオットはダーシーさんに負けない美男子で、なんと最初は田舎のダンスで二人は最初に踊り言葉を交わす。

物語は、名門伯爵家の血筋ではあるが両親を亡くし地味に暮らす一家を中心に繰り広げられる。イングランド中部の田舎のコテージで姉のマーガレットが妹のキャサリンと弟のスティーブンの面倒をみてゆったりと暮らしている。そこへ突然、ハンサムな子爵エリオットが現れ、この家の長男スティーブンが伯爵家を継ぐことになったという。
4人は伯爵家の本邸で暮らすことになり貴族社会の仲間入りをすることになる。次女のヴァネッサが本書の主人公で、病気のへドリーと結婚して1年半で死に別れ、近くの婚家で暮らしている。エリオットは放蕩をしてきたが30歳になるしそろそろ結婚したいと思っていて、長女のマーガレットに申し込もうとするが、マーガレットには叶わない恋をしている相手がいる。ヴァネッサは姉を窮地から助けようと、自分からエリオットに結婚を申し込む。ヴァネッサは美人ではなく、美貌の姉と妹の間にはさまれて〈地味な娘〉と言われて育った。
なんだかおかしな展開だが、結局は結婚していろいろあって、だんだんと愛を確認していく。
(山本やよい訳 原書房ライムブックス 914円+税)

ミス・リード『ドリー先生の歳月』

たくさんいただいた本の中の単行本2冊がミス・リードの本だった。名前を聞いたことがあるという程度の知識しかなかったのでありがたい。
「ミス・リード・コレクション」と名付けられた7冊の本をみんな欲しかったと2冊読んだところで思う(笑)。いえいえ、いただいた2冊で充分にイギリスの田舎の生活がわかります。

去年レジナルド・ヒルさんがお亡くなりになった。彼の作品を読んでいると、古き良きイギリス(ヨークシャー)を愛していた人だったと思う。いまのイギリスになくなりつつある人間味やウィットが充満している彼の本の中でも「異人館」と「完璧な絵画」の田舎は最高だ。
図書館で年末に「異人館」を借りてきて再読し、これは買って持っていようと思った。
のどかな田舎に警官が入り込んだり(完璧な絵画)、オーストラリアとスペインから自分の過去を調べにきたり(異人館)と、外からの風や光があたって、田舎の風物が輝く。みんなそれぞれ過去があったのが明らかになり、愛も甦る。
まあ、いわば、お伽噺のような世界で、だから好きなんだけど。

「ドリー先生の歳月」では、ドリー先生が生まれてからいろいろなことに出合いつつ教師を続け、ついに教師を辞めて田園生活を楽しむところまでを、率直にまっすぐに書いている。
ミス・リードの語りは率直で、咲いている花、実っている実、そよぐ風、小川の流れ、洗濯物など田舎の家のあれこれが語られる。

ドリーの父フランシスは屋根葺き職人で母のメリーと姉のエイダがいた。
町の南に沼地があって貧乏な人たちが住んでいた。ドリーたちはそこより少しましなところに住んでいた。わずかなお金でどうやって家族を養っていくかよりも、どうしたら自分たちの窮状を身近な人たちに隠しておけるかと苦労する人が多かったがドリーの両親も同じくだった。

1888年に生まれたドリーは人形のエミリーをいつも抱いていて祖父母にも愛されて育った。のちに出会った生涯の友がエミリー。
知り合いからの紹介で一軒家を借りられることになって一家は喜ぶ。
その家で大きくなり、教師となり、恋をする。村人に信頼されている。この家で子ども時代からの友エミリーと暮らそうと決める。
(中村妙子訳 発行:日向房 発売:星雲社 1999年 2000円+税)

ブライアン・オールディズ『地球の長い午後』

今月のはじめに見た衝撃的な映画、キース・フルトン &ルイス・ペペ監督「ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド」の原作者がSFの名作「地球の長い午後」を書いたブライアン・オールディズだという。わたしは作家も作品も知らなかったが、相方が自分のSFの棚から出してくれた。1961年の作品。
そんなことを当日記とツイッターに書いたら、SFファンのK氏から「僕が読まずに置いてあるサラ・パレツキーの「サマータイム・ブルース」を読むから、kumikoさんは「地球の長い午後」を読んでください」と返信があった。
SFをほとんど読まない(K氏はハードボイルドをほとんど読まない)わたしだが、数日かけて読み終った。

いまからずっと未来の地球は〈熱、光、湿度(しとり)〉の温室のようで、植物が異様にひろがっている。18人のグループが枝からぶらさがった18個の家胡桃(いえくるみ)にそれぞれ住んでいる。いま子供の一人が緑に落ちて死んだ。リーダーのリリヨーは責任を感じる。死んだ子供の魂を〈頂〉に持って行き、帰ったら成長した子供たちと別れることになる。
【子供たちには、ほかのグループに合流するまで自分たちの力で身を守らなければならない孤独と苦難の年月がやってくる。そして、老年期に入ったおとなたちは、審判と死を迎えるために、誰も知らない〈天〉に向かって船出するのだ。】

子供グループの中でいちばん活発なグレンは命令に従うのが大嫌いでのけ者になるが、グレンを好きなポイリーだけがいっしょに行動する。
グレンの頭の上になにか落ちてきたと思ったらアミガサタケだった。アミガサタケはグレンの頭の中の忘れられた屋根裏に居ついて話しかける。それからずっとアミガサタケはグレンの体の中に住んで語りかけ、グレンの行動を支配するようになる。

そこまで読んだら、目配りが細部までいきわたり丁寧に読めば読むほど楽しめるって感じがしてきた。そこへどかんとこんな文章に出くわした。
【アミガサダケは太陽が破壊的な活動の段階をむかえ、地球の温度が上昇をはじめた時代を見せた。工学技術に信頼をおいていた人類は、この緊急事態を乗り切る準備にとりかかった。(中略)準備は進んだ。しかし、それとともに、人びとは病気でつぎつぎと倒れはじめた。太陽から送り出されてくる新しい病気、放射線が原因だった。この奇妙な病気はじょじょに全人類にひろがっていった。それは、彼らの皮膚を、目を——頭脳を侵した。長い苦しみの後に、彼らは放射線からの免疫性を獲得した。彼らはベッドから這い出した。しかし何かが変わっていた。命令し、思考し、闘う能力を失っていたのだ。】
「放射線」を「放射能」と言い換えても通るのではないかしら。

植物が異様に繁殖し、わけのわからない虫たちがのさばる世界。そこにも愛が育ち子供が生まれる。
最後までおもしろい小説だった。
(伊藤典夫訳 ハヤカワ文庫)

館山緑『誓約のマリアージュ 甘やかな束縛』

ヴィク・ファン・クラブの世話人をしていることと、積極的にSNSをやってきたせいで、ほんの少数ながら作家や翻訳家の方々とネット上でつきあいがある。館山緑さんもそのひとりで、いつマイミクになったか覚えてないが古いつきあいだ。ゲーム関連の仕事をされていると思っていたら、ティアラ文庫から本を出された。「しあわせな恋のはなし」「子爵探偵 甘い口づけは謎解きのあとで」の2冊を買ってジュンク堂のどこにこの手の本が置いてあるかもわかった。最初は探しまわって店員さんに連れて行ってもらった(笑)。今回はさっさと買った。昔、フジミシリーズがあったところ(いまもある)。フジミを読むために「小説ジュネ」を買っていた時期もあった。館山さんの本を読むまで忘れてたけど。

「誓約のマリアージュ 甘やかな束縛」はこういう作品の決まりを守りつつ、作家の力量を見せていると思った。
主人公は美しい令嬢グレーテル(マルグレード・ドレスラー)。建築家の祖父が理想の館〈エーヴィヒトラウム〉を建てるために財産を使い果たし未完成のまま死去。両親はその思いを継いで奔走したが完成間近に相次いで亡くなった。グレーテルに遺されたのは莫大な借金とこの館だけである。
グレーテルは万策つきてこの館のためにいままで援助してくれた人たちに「この館を買いませんか?」と手紙を書くが、ほとんど「妖精の国を買いませんか?」と言っているようなものである。そこへ現れたのがフェリクス。
フェリクスは幼いときにこの館へ来てグレーテルに失礼なことを言い、池に突き落とされたことがある。それ以来の訪問の目的は、この館を買いグレーテルと結婚すること。
館山さんは名字にも使われているくらいに「館」が好きなんだろうな。ドレスラー一家が館に入れこんできたことを詳しくうれしそうに語っている。
お約束のベッドシーンが3カ所あって楽しませてくれるし、かくれんぼできる館でしばし遊べる。
(ジュリエット文庫 590円+税)

ルーシー・M・ボストン自伝『メモリー』

ルーシー・M・ボストン(1892-1990)はイギリス児童文学の傑作「グリーン・ノウの子どもたち」をはじめとするグリーン・ノウ・シリーズを書いた人である。
イングランド北西部のランカシャーの豊かだが厳格な家庭に生まれ、寄宿学校を経てオクスフォード大学サマヴィルカレッジ入学したが退学。第一次大戦中は看護婦の訓練を受けて各地の病院で働いた。ルーシーは戦争による不自由な世の中でたくましく自由奔放に生きていく。
ハロルド・ボストンと結婚して息子ピーター(グリーン・ノウ・シリーズの挿絵を描いている)がいるが、1935年に離婚。その2年後にマナーハウス(12世紀に建てられた)を見つけて購入し、修復にとりかかる。広い庭園で薔薇を育てたりパッチワークづくりをはじめる。
第二次大戦のときは、音楽室を設けてレコードによるコンサートを開き、たくさんの兵士たちが聞きにきた。
60歳になって自分の住む屋敷をテーマにした作品(グリーン・ノウ・シリーズ)を書き出す。
老齢になっても断固として独り住まいをとおし、97歳6カ月で生涯を終えた。

Sさんに貸していただいたまま半年くらい経ってしまったのだが、読み出すとあっという間に読み上げた。おもしろかった。
わたしが第一次大戦について知ったのは少女時代に読んだ「チボー家の人々」だった。第一巻「灰色のノート」で、1914年という年が頭に刻み込まれた。ずっと後で映画「突然炎のごとく」と「西部戦線異常なし」。小説ではドロシー・L・セイヤーズのピーター・ウィムジイ卿が帰還してから悩まされる塹壕戦の恐怖、ヴァージニア・ウルフの「ダロウェイ夫人」もそうだった。
そんな連想がばんばん思い出されてきたルーシーの看護婦生活であった。

「ホビットの会」というイギリス児童文学研究会を主宰しておられたMさんが、イギリスに留学されて一時帰国されたときに、ボストン夫人のマナーハウスの絵はがきをお土産にくださった。いまも大切にしているが、マナーハウスの写真と彼女が作ったパッチワークの写真。本書の表紙カバーにもパッチワークが使われていて、見ただけで驚くしかない。
(立花美乃里・三保みずえ訳 評論社 2800円+税)

P・D・ジェイムズ『高慢と偏見、そして殺人』(2)

二度目を読み終って落ち着いたとき、ダーシーさんとダルグリッシュが似ていると気がついた。ダルグリッシュのシリーズを映画化するならダルグリッシュ警視長の役はコリン・ファースにお願いしたい。

仕事の合間に手元にあった「殺人展示室」を読んでいたら、ダルグリッシュがエマに結婚を申し込むところがあった。まずこれを読んでほしいと待ち合わせたキングズ・クロス駅で手紙を渡す。「わたしはジェイン・オースティンの小説に出てくるウェントワース大佐ではないけれど、これを読んでほしい」という書き出し。おお、こんなことが書いてあったのか、忘れてた。
ウェントワース大佐は最後の作品「説得」で、アンが8年ぶりに再会するひとだ。

ウィッカムは友人のデニー大尉を殺害した容疑で逮捕される。アルヴェストンが一流の弁護士を頼み万全の準備で裁判に臨む。裁判のシーンがゆっくりしっかりと進んでいくが、当時のイギリスの裁判がどんなものかよくわかっておもしろい。
こころと生活をかき乱す事件が起こってもダーシー夫妻の愛はゆるぎないし、エリザベスは家政婦と執事とその他の使用人をきちんと把握している。田舎の屋敷に住むイギリスの紳士階級がどんなものかよくわかる。

ドロシー・L・セイヤーズの「毒を食らわば」でハリエットが愛人を毒殺した疑いの裁判シーンを思い出した。
ダフネ デュ・モーリア の「レベッカ」もダーシーさんみたいに広い屋敷の主人の裁判シーンがあったっけ。そうそうマンダレー館のマキシムさんだ。

ダーシーとウィッカムはこども時代にいっしょに遊んだ仲だが、一方は領主の息子で一方は使用人の息子である。ダーシーは偏狭なほどにまじめな紳士になり、ウィッカムは金と女にだらしない軍人になった。ウィッカムはダーシーの妹ジョージアナを罠にかけようとしたことがあり、ダーシーは交際を絶っていた。その後、にっちもさっちもいかないウィッカムを、つきあっていたエリザベスの妹リディアと結婚させて生活できるようにしてやったのがダーシーなのである。義絶しているとはいえ義弟なのでややこしい。

P・D・ジェイムズは「高慢と偏見」に、とても納得のいく最後を書いてくれたと思う。
今日は印象だけで書いてしまった。もっと消化したらうまく書けるかもしれない。
(羽田詩津子訳 ハヤカワポケットミステリ 1800円+税)