パトリシア・ハイスミス『キャロル』

映画『太陽がいっぱい』(1960)を見たのは1965年だったといまわかった。生意気な弟が父親と二人で見に行ってストーリーをしゃべりまくるし、主題歌をうなりまくるしうるさかったのを覚えている。すぐに兄たち姉たちも見に行ったのだろうか、わたしは一人で行ったように思う。わが家は『太陽がいっぱい』でいっぱいだった。
そのときに原作者パトリシア・ハイスミスの名前を覚えたのに、小説は読んだことがなかった。『リプリー』はビデオで見てなんともいえぬホモセクシュアルな雰囲気が好きになったのに、まだ本を読むところまでいかなかった。おかしな話だがいま考えると初読みを『キャロル』のためにおいてあったのか。

で、はじめて読んだパトリシア・ハイスミスが『キャロル』(1949)である。
最初から期待いっぱいで読みはじめて、その期待を裏切らぬ期待以上の作品で、読み終わっても数日間はしびれていた。
ハイスミスは作品のテレーズと同じようにニューヨークのデパートでバイトをしていて、美しい金髪の年上の女性を見かけた。そのときの気持ちが作品『ザ・プライス・オブ・ソルト』を生み出した。
作品は内容ゆえに大手の出版社で断られ、1952年にクレア・モーガン名義で小さな出版社から刊行された。翌年にペーパーバック版が出て100万部近くも売れる大ベストセラーになった。本書がハイスミス名義となりタイトルが『キャロル』になったのは1950年版のドイツ語版とイギリス版だったと訳者柿沼瑛子さんの「あとがき」にある。

ニューヨークで独り住まいの舞台装置家のたまご19歳のテレーズは生活費を稼ぐためにデパートで働くことにした。クリスマスの時期で配属された人形売り場は大にぎわいである。喧騒の中にひときわ輝く女性が立っていた。毛皮のコートを身にまとったブロンドの女性を一目見るなりテレーズは・・・

キャロル (河出文庫)

三浦しをん「仏果を得ず」

友人のYさんが送ってくれた本。彼女がときどき日本の女性作家の本を送ってくれる。直木賞作家の本が多いが、わたしはほとんど知らない。翻訳物以外は明治大正昭和初期の本ばかり読んでいるなと改めて思った。
今回の三浦しをん「仏果を得ず」もはじめて知った本である。三浦しをんという名前は聞いたことがあるが読んだことがなかった。
ちょっと読んでみたらおもしろくて昨日と今日で読んでしまった。
主人公は文楽の若手太夫 建(たける)で、八章あるタイトルが全部文楽の演目がついている。「一、幕開き三番叟」からはじまって「八、仮名手本忠臣蔵」まで、建が語ることになり、三味線の兎一郎と組んで演じる。その芸道を極めようとする日々の笑いと涙の物語である。最初は組むのを嫌がっていた兎一郎だが、一緒にやっているうちに理解しあっていく様子がうまく描かれている。

大阪の町があちこち出てくるのも魅力。住んでいるのは生玉(神社)さんのそばの連れ込みホテルである。偶然知り合ったホテルの持ち主の世話になっている。地方公演のときは留守が安心だし、大阪にいるときは手伝いをする。近所の小学校でボランティアで文楽を教えて、熱心な少女に惚れられる。
文楽を演じる人たちの演目と絡んだ物語がうまくて楽しい。

わたしは若いころに四ツ橋文楽座や道頓堀の朝日座に何度か行ったことがある。能、歌舞伎、文楽、そしてクラシックとバレエに凝っていたハタチのころ。働いたお金はみんなそれらに使った。5年後にはジャズと登山とデモに興味が移ってしまって古典とはさよならしたが、三越劇場で見た桐竹紋十郎が遣った「伊達娘恋緋鹿子」(八百屋お七)が忘れられない。
(双葉文庫 600円+税)

仏果を得ず (双葉文庫)

柴崎友香「春の庭」

去年の芥川賞を受賞したこともお名前も知らなかった柴崎友香さんの「春の庭」を買って読んだ。先日すでに日にちの過ぎた「週刊現代」9/12号の書評ページをめくっていたら「わが人生最高の10冊」の左側にある「柴崎さんのベスト10」が目についた。3位の「ニューヨーク・ストーリー ルー・リード詩集」である。この本は相方の愛読書であって実はわたしは読んでない。ただ我が家はしょっちゅうルー・リードの歌声が聞こえるしパソコン画面に顔が見えるから全身にしみついている。実はわたしは昔からジョン・ケイルのファンなのです。

そんなわけで、おおいに興味をそそられ本文を読んだ。ちなみに1位はデニス・ジョンソンの「ジーザス・サン」、2位は漱石の「草枕」大賛成。10位まで好みが合う本ばかりと思ったが、特に6位の吉田健一「東京の昔」はわたしの大好きな本である。こういう好みの人が書いた小説を読んでみたい。
というわけでアマゾンで中古本が100円であったので即注文、届いたのをすぐに読んだ。

いつも翻訳本をそれも北欧のミステリを好んで読んでいるし、この数日はピエール・ルメートルの猛スピードで超残酷な3冊を読み終わったところである。はやるルメートル頭を抑えて読み出した。「春の庭」というタイトルが素敵で表紙カバーの写真がいい。
読んでいくうちにおだやかな語り口に引き込まれていった。

離婚して独り暮らしになった太郎は元美容師でいまはサラリーマン生活をしている。借りているアパート「ビューパレス サエキIII」に住む住民との穏やかなやりとりが描かれる。
アパートから見えるおしゃれな一戸建ちの空き家にアパートに住む独り暮らしの西さんは執着する。太郎も西さんとつきあっているうちに興味をそそられるようになる。
静かに静かに物語が進んでいく。

作者は大阪生まれだが作品の舞台は東京である。大阪の人が描いた東京という感じがする。わたしは東京生まれだが、こどものころから大阪にいてちょっと出たことはあるが大阪人である。若いころ東京に住む友人宅によく遊びに行った。そのときの若い3カップルのアパート暮らしの雰囲気が「春の庭」に似ている。東京の人には書けない東京って思った。わたしの独断ですが。
(文藝春秋 1300円+税)

中将姫と折口信夫「死者の書」

先日から折口信夫「死者の書」を寝る前に読んでいる。ずっと昔に読んだ本でながらく忘れていたのを青空文庫で見つけた。iPad miniに移して読んでいるのだが、夜の読書にふさわしいしみじみとした物語だ。
ブロンテ姉妹、バーネット夫人からしばし離れて奈良の姫君に想いをはせる。

「中将姫」の絵本をこどものときに持っていた。絵本とはいえ仏教とかお経とか外国物を読むよりわかりにくかったが、蓮の糸で当麻曼荼羅を織り上げた話が不思議であると同時に神々しく、すごいことをしはったと思っていた。絵本の色づかいがまた独特の毒々しさを持っていて魅了された。継子いじめの話でもあって歌舞伎的だし。
そんなことを昨夜「死者の書」を読みながら思い出していた。

當麻寺には何度か訪れている。竹内街道を歩いて行ったこともある。いま思い出したが「死者の書」を読んだのはそのころだった。當麻寺の庭の石積みのところに長いこと座って、したしたという足音が聞こえるのを待っていたりした。

吉田喜重監督「嵐が丘」を再び見て

さっきまで吉田喜重監督の「嵐が丘」(1988)を熱中して見ていた。二度目だったから検索したら2011年のお盆休みに見て感想を書いていた。わたしとしては熱狂が不足している(笑)。それまでに吉田監督の映画は2本しか見てなくて「これからできるだけ追いかけたい」と最後に書いているが、口だけだった。すみません。(「秋津温泉」(1962)と「エロス+虐殺」(1969)は封切りで見ていたのだけれど。)

今回は最近何度も書いているけど、「ユリイカ」高峰秀子特集のインタビューで吉田喜重すごいと思い、パートナーの岡田茉莉子さんの自伝を読み、著書の「小津安二郎の反映画」を読み、ユリイカの吉田喜重特集を読んでいる最中である。
突然、炎のごとくに吉田喜重熱が高まっていて、映画のほうはDVDで「水で書かれた物語」、「鏡の女たち」、「エロス+虐殺」を見た。つぎは「嵐が丘」をもう一度見ようと決めていた。

エミリ・ブロンテ「嵐が丘」の舞台ヨークシャーと主人公ヒースクリフとキャサリンを日本の中世の荒涼たる風景に置き換えていて見事。
人里離れた山の中にあるお社のような山辺一族の屋敷で、あるじ(三國連太郎)が都から汚らしい孤児を連れて帰ってきたところからはじまる。屋敷には娘の絹と息子の秀丸が待っていた。新しい仲間の鬼丸を絹は遊び相手にするが、秀丸は目の敵にして虐待する。
月日が経ち、鬼丸(松田優作)は絹(大人になってから田中裕子)とは惹かれあい、秀丸とは憎しみ合う。
絹が亡くなると墓を掘り出し骸骨になっても愛する鬼丸。

すべての人物の基本の動きが能の動作であるのを今夜改めて確かめるように見た。実はわたしはひところ能に凝っていた。謡を習ったりはしないけど、見るのが得意なのである。中世の愛と憎しみを描くのに能の様式がぴったりだった。

谷崎潤一郎『鍵』

ちょっと前のことだが梅田で待ち時間があったときに読むものをなにも持ってないのに気がつき、大阪駅構内のイカリスーパーの横にある本屋に入って文庫本を探した。今年になってから川端康成の文庫本をけっこう買って読んでいる。新い文庫本の紙の手触りが気持ちよい。新しいといっても本が新しいのであって中身は古典である(笑)。アマゾンの中古本にまさかあると思わなかった井上靖の「夢見る沼」なんか古い本があっただけでありがたかったが、文庫本は新本が好きである。
ざっと眺めてその日は谷崎潤一郎にした。谷崎は好きでけっこう読んでいるが、読んでなかった「鍵・瘋癲老人日記」にした。発表当時はずいぶん話題になった作品である。

そのときは本は不要だったので帰って未読本の箱に入れておいたのを、数日前から他の本と並行して読み出した。内容がきついので今回は「鍵」だけにした。発表当時にいろんなところで紹介されていたからどういう小説かわかっているけど、いざ読むとすごさがあって感嘆した。

夫婦ともに秘密の日記を書いていて、相手が読んだか気にしていると書いて、こういうふうに隠したとかセロテープを貼ったのを剥がした跡とか、鍵が落ちていたとか、中年というより老年にさしかかろうとしている夫婦の話。酔ってセックスして、熟睡しているところをポラロイドカメラで撮って・・・
読み終わったとき、これは「文学」だと感じた。
(「鍵・瘋癲老人日記」 新潮文庫 630円+税)

井上靖『夢見る沼』

先日(14日)の日記に書いたんだけど、姉の家でテレビを見ていたら古い刑事ドラマで中村玉緒がデキる女性刑事をやっていた。事件にからむ元刑事がいて知った顔だなと思ったら名古屋章なのだった。年取って太っているけど特徴がある顔だからぱっとわかった。彼が出ている好きなドラマをまだ覚えていて、検索した結果、NHKで1957年に放映された「夢見る沼」とわかった。
活動や登山や交友で忙しくしていたから、落ち着いてテレビを見ている暇もなかったが「夢見る沼」は毎回見ていた。恋愛ドラマとして抜群によかったと思う。名古屋章は二枚目でないところがよかった。女優のほうはだれか忘れたが感じの良い人で、信州のシーンや大阪と京都の間にある淀川べりのラブシーンがよかった。いまも覚えているところがすごい。

原作者の名前も思い出してアマゾン中古本で注文。井上靖「夢見る沼」(講談社文庫)が昨日届いたのですぐに読み出し、ざっと今日読み終わった。ドラマとまったく同じ展開だった。原作に忠実なドラマだったのね。
井上靖の本は家にあった母と姉の婦人雑誌でかなり読んでいると思う。後のノーベル賞候補になったころの作品より、昔の恋愛小説のほうがなんぼおもろいかというのが我が家の女性陣の意見なのであった。

主人公の伊津子は開業医の一人娘で家業と家事を手伝いつつ、わりと自由に暮らしている。学友だった節子の頼みで一方的な婚約解消を告げに信州の八代の家に行く。写真家の八代と話しているうちに伊津子はだんだん彼に惹かれていく。一方、節子は解消した婚約をまた元にもどして八代と結婚しよう思う。

屈託があるから家事に励むのだが、そのころはまだ洗濯機がなかったようで、たらいで洗濯するシーンがあった。京都の叔母のところに行くと晩御飯のサラダが冷たくて冷蔵庫に入れたあったのねと思うところもあって、まだ電気冷蔵庫が一部にしか普及してなかった時代とわかった。
(昭和30年1月号〜12月号まで「婦人倶楽部」に連載)

フランソワーズ・サガン『私自身のための優しい回想』

ディアーヌ・キュリスの映画「サガン ー悲しみよ こんにちはー」を見たらあまりにもよかったので、キュリス監督の20年前の映画「ア・マン・イン・ラブ」を見直したり、サガンの作品でいちばん好きな「一年ののち」を読み返したりした。

次に本書「私自身のための優しい回想」を買って読んだのだが、サガン大好きが復活して、ここ数日はサガンに明け暮れる日々である。
この本を読んだのははじめてでおもしろかった。さまざまな著名人(ビリー・ホリデイ、テネシー・ウィリアムズ、オーソン・ウェルズ、ルドルフ・ヌレエフ、サルトル)と会いに行って話したりつきあったした印象を書いた文章のほかに、賭博、スピード、芝居、サントロペ、愛読書の項目がある。

著名人が著名人に会いに行って気が合い話が合って、これ以上のことはない記録なのでおもしろくないはずがない。
わたしはヌレエフ本人が踊る舞台は見たことがないが、映画になったのは何度も見た。(記録映画みたいに舞台を写した映画を厚生年金会館ホールなどで興奮して見た思い出があるし、レーザーディスクもいろいろ買っていた。)そのヌレエフにアムステルダムまで会いに行って3日間稽古を見て話す。ヌレエフの孤独やこどもっぽさがサガンらしい筆で書いてあっていい感じだ。

以上のインタビューや回想もよかったけど、わたしがいちばん興味ふかく読んだのは「賭博」と「スピード」だ。両方ともわたしとはいちばん遠いところにある。でも、おもしろかった。賭博とスピードに入れあげたサガンがああいう小説や芝居を書いたのだ。
(朝吹三吉訳 新潮社 1986年)

監督・脚本:ディアーヌ・キュリス『サガン ー悲しみよ こんにちはー』

昨日ネットでこの映画があるのを相方が見つけて今日レンタル屋で借りてきてくれた。2008年のフランス映画である。わたしはサガンを描いた映画があることを知らなかった。もうちょっとアンテナを張らなくては・・・

見た後で監督・脚本のディアーヌ・キュリスの名前は知っている、なにか書いているはずと古い日記を探したら出てきた。イタリア、トリノ出身の作家チェザーレ・パヴェーゼを描いた「ア・マン・イン・ラブ」(1987)の製作・原案・監督・脚本の人だった。この映画はなにもかも大好きで二度見たように思うが記憶にしか残ってない。もう一度見たい映画10本に入る。

「ア・マン・イン・ラブ」から21年目の映画「サガン ー悲しみよ こんにちはー」には、それだけの落ち着きがあるなあと感じ入った。前作ではなにもかも詰め込んでいる感じだったが、今回は描かねばならぬことをしっかりと描いていると思った。

フランソワーズ・サガンはわたしにとっては同時代を生き抜いた人である。「悲しみよこんにちは」では、少し嫉妬気味で読まなかったが、「一年ののち」でとりこになった。主人公のジョゼはお金持ち階級の人で、わたしは無産者階級の人だが、感じがそっくりと友人に言われた。それから10数年は左手にエンゲルス、右手にサガンを持って歩んでいた(笑)。

とにかく破格のお金を稼いでおそろしい無駄遣いをする人で、結婚(2回)や出産も経験している。なのに恋する女性の感情を描いてこんなに鋭く繊細な人はいない。どの作品も何度も読んで主人公の言葉を真似したりしているうちに男性をはぐらかす術に長けるようになった(笑)。

映画のサガン(シルヴィー・テステュー)は実際のサガンがやっていると思うくらいに似ていて、年を取ってくるにつれ見ているのがつらくなった。同時代を駆け抜けて先に逝ってしまったという気持ちがあるから。

A・S・バイアット『抱擁』

1週間前に映画「抱擁」を見た。何度も見ている大好きな映画だ。
映画を見終わったら原作の本を読みたくなって、アマゾンの中古本で注文したら〈1〉〈2〉が別々の本屋さんから同時に届いた。喜んですぐに読み出した。すでに図書館で2回借りて読んでいるが、自分の本となったら格別に楽しく読める。
最初は〈1〉から読み始めたが、大好きな最後のシーンが読みたくなって〈2〉を開いた。いまはそのシーンを読んでしまったので〈2〉の最初から読みはじめている。そしたら最後の登場人物たちの中でわからなかった人や関係が理解できて、すごく実になる読書になった。また〈1〉から読まなくっちゃ。

ビクトリア時代の高名な詩人アッシュには妻がいて、女性詩人ラモットは愛する女性画家と暮らしていた。二人は燃え上がった恋をヨークシャーへの旅の4週間で終わらせ、世間に知られることなく別々に死んでいった。いま二人の間に交わされた手紙が現代の主人公モードとローランドと二人に関わる学者たちの手にある。

恋愛小説なんだけど、手紙をめぐる謎と墓を暴いても遺品を手に入れようとするワル学者の執念とそれを阻止するグループ活動はミステリを読んでるのと同じわくわくするものがある。
(栗原行雄 訳 新潮文庫 I II ともに895円+税)