国民服と国防色(わたしの戦争体験記 56)

日本大百科全書の解説によると、「日中戦争下の国民精神総動員運動の一環として、1940年(昭和15)11月1日公布施行の国民服令で制定された男子の服装」とある。我が家も兄たちの学校行きの服や、父親の通勤服が国民服になっていった。(まだ疎開前のこと)兄たちは国民服を着て肩掛けカバンをかけ、ズボンの上からふくらはぎにゲートルを巻いた。上の兄はコツがあるらしくうまく巻いていたが、下の兄が下手くそで毎朝かんしゃくを起こしていたっけ。

女子はブラウスやセーターにモンペだったが、大阪の学校に通っていたときはまだスカートだったような気がする。おしゃれで裕福な子からモンペ姿になっていった。わたしは夏に山梨県に疎開したときはスカートだったがその秋からモンペになった。最初はピンク色の入った絣のモンペがうれしかったけど、おばさんが洗濯をしてくれなかったからピンクが汚れて見苦しかった。

国民の着るものが国防色という気持ち悪い色に統一されてしまい、ネクタイなんてすっかり忘れられた。布地がスフというのがさっきアタマの中から出てきた。スフという言葉をよく覚えていたもんだ。スフでできた衣類は洗濯するとごわついた。着ても暖かくなかった。母親は古着かスフか家族の着るものに困っていた。それよりも食べるものがなくて困ったから着るものは第二第三の問題だったかも。
おしゃれな甲府の叔父さんも田舎の道で会ったとき国民服だった。さすがにアイロンのかかったのを着ていたが一回り大きくて哀れな感じがした。

灯火管制(わたしの戦争体験記 55)

わたしは4年生の夏に疎開してしまったので、翌年の大阪大空襲のときは山梨県にいて空襲の恐ろしさを体験していない。次兄は山梨県だが甲府市の叔父の家にいて二度空襲にあい、二度とも命からがら逃げている。わたしは後屋敷村にいて甲府方面の空が真っ赤になっているのを見ていた。翌朝、兄が黒焦げの自転車を引きずってやってきた。それから兄はどうしたのかしら。叔父のところにもう一度お世話になったか、さきに大阪へ帰ってたのか。今度あったら聞いてみよう。わたしは疎開したので、空襲後の大阪の状況がわからずじまいなのが残念だ。戦後何十年も経ってから各区の戦災を語る会などに行って当時の状況を体験者に聞いた。西区は3月に暗い時間にやられたが、ちょっと北のほうは真昼間に機銃掃射されたことなどそのとき始めて知った。聞いておかないと当時のことを知っている人たちが亡くなってしまう。

戦中のことをいま思い出そうとしているがあんまり出てこない。灯火管制という言葉がいま出てきた。灯火管制がしかれたのは3年生のときだったかな。玄関の戸をぴったりと閉め、灯りは茶の間だけで、コードをさげた電気の傘の上から黒い布を被せた。灯りは黒い布の下だけにとどいていた。家族全員が火鉢に手をかざしながら小声で話していた。外から隣組長が点検して明かりがもれていると怒られる。本を読もうとして明かりを取り合いきょうだいゲンカが勃発する。
息を殺すようにして父が話し出す。幼い時から浅草の仲見世で働いた話がおもしろかったが、本人はすごい苦労をしたといってた。お金の苦労をたくさんしたが、遊びもしたみたいで、いろんなことを話してくれた。アメリカ映画が好きで、『駅馬車』『暗黒街の顔役』はストーリーを最初から何度でも聞いたので耳にタコができた。映画は戦後だいぶ経ってから見ることができたが、父の言葉をまともに信じていたからがっかりした(笑)。

灯火管制のなかで映画と探偵小説とジャズとアメリカ文化への憧れを語る父と、日本帝国の勝利を信じている兄と軋轢があったのか、当時のわたしは知らなかった。ただ、真面目な兄をからかう父がいたのをよく覚えている。

軍歌でせっせっせー(わたしの戦争体験記 54)

こどものころは家で姉たちと「せっせっせー」と歌いながらやったものだ。「せっせっせーのよいよいよい」についで「夏も近づく八十八夜ホイホイ」と続けて歌って手を叩くのが定番、ホイホイは口拍子&手拍子。学校の休憩時間や手持ち無沙汰のときなど「せっせっせやろ」と始めたものだ。ほかの歌でもやったか覚えてない。もっぱら「夏も近づく」であった。せっせっせーは大阪も山梨も同じだった。

ところが、4年生くらいから「とどろーくつつおーと とびちーるだんがん」と歌うようになった。「あらなーみあーろうデッキのうえに」振りは同じだが大振り。両手をぱんぱんと打ち合ったり交差させたりしたように覚えている。
せっせっせは綾とりと同じく女子の遊びで、教室でも遠足の電車の中でも二人が向き合ってやっていた。家ではもっぱら二番目の姉とわたしとの遊びだった。

先日「とんとんとからりと隣組」の歌のことを書いてからとみに戦中の歌が口から出てくる。「勝ってくるぞと勇ましく、誓って国を出たからにゃ、手柄立てずに帰らりょか」なんて洗濯物干しながら歌っている。おっと、これは元気なほう。だいたいに哀愁溢れる曲が多い。「真っ先かけて突進し・・・友は野末の石の下・・・思えば遠き満州の・・・」なんて切れ切れに覚えている。

阿弥陀池和光寺の花祭り(わたしの戦争体験記 53)

今日4月8日はお釈迦様の誕生日で花祭りの日だと気がついた。
西六国民学校の3年か4年のときに下の姉に近所の阿弥陀池和光寺へ連れていってもらったことがある。我が家は父が仕事に行き、母は家で内職が忙しかったから、小さな子の世話はきょうだいがすることになっていた。路地から長堀通へ出て白髪橋を渡って阿弥陀池筋を南へ行くと左側に和光寺があった。いまもある。当時はその近くに姉が通っていた精華女学校があった。校庭には楠がのびのびと植わっていたのを覚えている。

寺に入ると池があって人がいっぱい。なにかなと覗き込むと亀がたくさんおり、亀を見ながら子供たちが指差したり叫んだりしながら遊んでいる。
池の水がお日さんに当たってぴかぴか光っている。でっかい亀が甲羅を干していたり、うるさい子供たちの声から逃れるためか首をひっこめてごろんと寝てたり。春の日差しが暖かく気持ちのよい午後だった。

亀に飽きたこどもたちには甘茶が振舞われていた。順番を待って甘茶をいただき、お釈迦様像に手を合わせた。
出店があって飴を売っていたのを姉が一袋買ってくれたので、持って帰って母にお土産として渡した。

最近、折口信夫先生がこのお寺、阿弥陀池和光寺に来られたときのことを書いておられるのを読んで、あそこへきはったんやと感慨ひとしおだった。

大日本雄辯會講談社発行 「少年講談」(わたしの戦争体験記 52)

戦争中の読書を考えると次々と読んだ本を思い出すことになる。学校にあがる前から少女ものを読んでいたが、これは姉2人が持っていたおかげで、吉屋信子をはじめとする少女小説と少女雑誌があったおかげだ。

それだけでなく、わたしは少年ものも好きだった。姉2人の下に兄が2人いて父親が買ってきた少年ものがたくさんあった。佐藤紅緑の『あゝ玉杯に花うけて』『夾竹桃の花咲けば』なんか好きだったなあ。それに新町には近所に貸本屋さんがあって、兄たちは毎日のように借りに行った。借りる本はほとんど「少年講談」で、わたしは兄たちが読んだあとに回してもらって読んでいた。1冊を3人が読むので割安だ(笑)。

少年ものだけでなく熱中したのが時代もので、いまここで名前を思い出せるだけ書いてみようか。と書き出したものの、記憶力散漫ですぐには名前が出てこない。ネットのお世話になりながら書き出したのは以下で順序はばらばら。
田宮坊太郎、荒木又右衛門、柳生十兵衛、岩見重太郎、三好清海入道、稿団右衛門、真田幸村、猿飛佐助、荒木又右衛門、塚原卜伝、後藤又兵衛、などなどキリがない。
なかでも一番好きだったのが塚原卜伝。最後のほうで、白髪の卜伝が田舎の家でいろりに鍋をかけて座っているところへ悪漢が現れ刀を向ける。木の鍋ぶたを手にもって刀を受け、やっつけるところがかっこいい卜伝さまはいまもわたしのヒーローである。

手本は二宮金次郎(わたしの戦争体験記 51)

戦争中はどこの学校にも二宮金次郎の銅像があったらしいが、わたしが通った西六国民学校にあったかどうかは記憶が定かでない。天皇の写真が納めてある奉安殿はあったが、金次郎さんはあったかな。疎開した山梨県の後屋敷国民学校にあったかどうかも覚えていない。立っていたといえるかどうかわからないけど、学校にはあるものだという思い込みはあった。たいていの学校にはあったらしいから。

絵本にはちゃんと本人と住んでいた村のことが出ていて、金次郎が大人の人格者に成長し出世した話が書かれていた。二宮金次郎は実在の人物だったようだ。

銅像はどこも同じで、大きな薪の束をかついだ金次郎が本を読みながら歩いている姿だ。
歌の歌詞を思い出すと
「柴刈り、縄ない、草鞋をつくり、親の手を助け、弟を世話し、きょうだい仲良く孝行つくす、手本は二宮金次郎」
というんだった。

わたしは4年生のとき「わたしも二宮金次郎みたいに歩きながら勉強しよう」と思い、ランドセルを背負って本を読みながら歩くことにした。結果はつまずいてこけ、手のひらと足のすねを擦りむいた。田舎道だから、街っ子には無理だった。

新町演舞場(わたしの戦争体験記 50)

もう30年も前だが関東在住の次兄が小学校の同窓会があって西六小学校へ来たことがあり、あちこち案内するとこどもの頃の記憶をたどって「ここがうちの家があったとこや、演舞場はそこやさかい」といった。そのとき新町演舞場は「大阪屋」という書籍販売の会社になっていたが、昔の受付がそのまま保存してあるのを懐かしそうに眺めていた。その斜め向かいに我が家はあったそうな。
「新町演舞場」跡を起点として考えて「我が家はここやった」と落ち着いたのは、その当時は運送会社の車庫や社宅があるところ。いまはスーパーライフが建っている。

わたしらがこどもだったころはぎっしりと木造家屋が立ち並んでおり、その間に狭い道や路地があった。川沿いには広い道があって川には橋がたくさんかかっていた。よく遊んだり走ったりして覚えているのは「白髪橋」と「問屋橋」。いま問屋橋があったところに立つと、スーパーライフはすぐそこだ。あそこらへんまで走って帰ったんやと懐かしい。

いまも少し西へ行くと道路沿いに戦災から焼け残った細野ビルがある。当主の細野さんが頑張って世話をしているから往時の面影が残っている。とはいえ、わたしには昔の細野ビルの記憶はいっこもない。ビルに入れてもらうと昔のままのカウンターがあって執務室はいまはホールになっていて、立派な書棚がある。隣りの社長室も往時のまま残してある。
当時の細野ビルの写真を使って毎年行われる「細野ビル66展」の案内ハガキが作られている。ビルの横の道路や川、電車、建物、人物がいっしょに写っていて、一度は小学校の講堂が入っていた。おお、見覚えある。ここで入学式をやったんや、映画を全校生が見たんやと懐かしかった。東側から歩いてきて東側にある校門を入り、低学年は昔からある木造校舎だったので、校庭の西側にある新校舎には催しのあるときしか入らなかった。

わたしは国民学校4年生の一学期までしか行ってないから新町演舞場は「えんぶじょう」としか覚えていない。芸者さんの踊りの会などあったらしいけどなにも知らない。覚えているのは一回だけ入場無料の「衛生博覧会」に行ったことだ。細長いガラス瓶に入ったホルマリン漬けの臓器とか並べてあって、気持ち悪かったのだけはよく覚えている。
ぜんぜん新町演舞場らしくない記憶ですみません。

大阪屋さんは引っ越して演舞場は整地され跡形もなくなった。今その土地にはタワーマンションが建っている。

とんとんとんからりと隣組(わたしの戦争体験記 49)

なぜかいまだにときどき口に出てくる隣組の歌「とんとんとんからりと隣組、格子を開ければ顔なじみ、まわしてちょうだい回覧板、教えられたり教えたり」
歌詞は多分間違ってないはず。ラジオからしょっちゅう流れていていたのがいまだに口にくっついている。

「コトバンク」の解説を読むと「江戸時代からの五人組は昭和になると都市では消滅したが、日中戦争以後に政府は国民精神総動員運動を企画した。1940年10月大政翼賛会の運動に引き継がれて・・・」と説明されている。
要するに、政府の思惑により外郭団体などが企画して国民生活の隅々まで支配しようということで、大阪新町に移り住んだ我が家も隣組に組織され、回り持ちで組長になって回覧板をまわしていた。

わたしは国民学校4年で疎開したので、その後のことは知らない。1年から4年の一学期が終わるまではずらりとハンコを捺した回覧板をお隣りさんにまわしに行ってた。配給とか灯火管制とか生活にかかわることはすべて上からの指導によって行う。それを軽快な歌を歌いながら運ぶ。

そういえば疎開から帰って住んだ家にも隣組があったが、みんな隣組といいながら自治会と名称が変わっていた。わたしの母親は婦人会の会長をしたりして活発な活動をしていたように思う。有志が集まって頼母子講なんかもやっていた。

姉が結婚して義兄が育ち暮らしてきた家に住むようになった地域には自治会があった。結婚して間もなく会計係に任命されたとかぼやいていた。その地域はいまも自治会が続いていて、とんとんとんからりんと戸を叩いてお隣りへお知らせなどを持っていっている。先日姉の代わりにわたしが持って行くと玄関はベルになっていた。玄関先での立ち話は昔のとおり。

懐かしの路地〈ろーじ〉(わたしの戦争体験記 48)

先日、四ツ橋筋まで行った帰りにいつもより一筋北寄りの道を通った。その路地は南北に通っている。南のほうの道から入って北へ出て西へ向いて歩いたら新町1丁目から2丁目になる。

ここの路地は80センチ×30センチくらいの石が自然にうまく組み込まれている。掃除が行き届いていてとても素敵だ。
戦災で焼ける前はうちの家から出たところもこんなんやったと相方に説明した。路地の入り口にはお好み焼き屋さんがあって、仲良しのさかえちゃんの家はこの辺と思い出した。奥の反対側の出入り口には陸軍軍人のお父さんがいるおうちがあった。町会長をしていて徽章がいろいろついた軍服を着て髭を生やしてはった。

大人の事情はよくわからなかったが、貧乏人の子沢山だったわたしの父親が東京での仕事がうまくいかず、新町に住む姉に相談したようだ。それで一家あげて新町にきて姉の住んでいた家に住むことになったみたい。家は路地を入ってすぐのところにある二階建てで小さな部屋が多く中庭があった。新町2丁目で路地のあとも残らず焼けてしまったのに、いまも路地がそのまま使えているところもあるのが運の差なんだろう。

戦地との交流(わたしの戦争体験記 47)

戦争中の学校にはいろんな戦争協力の行事があった。朝登校すると、校庭の(あれなんていったろう)天皇の写真が祀ってある小さな祠に頭を下げる。前を通るときはいつでも頭を下げるようにいわれていた。たいてい忘れてたけど。「君が代」を歌うときは祠に向かって歌う。それから「教育勅語」と「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」を叫ぶときも。

国民学校2年くらいのとき、戦地へ手紙を出そうという授業があった。兵隊さんに手紙を書けといわれて、あたまをしぼって書いた。知らない人に手紙を書くなんてとぶつくさいう子がいたが、兵隊さんはわたしたちのために戦っているんだからと先生がいって全員が書いた。みんな「兵隊さん、お元気ですか」と書いて書き止まってしまう。次に「わたしも元気で学校に通っています」である。なんとか書き上げて先生にわたすとまとめて戦地へ送ってくれた。

1ヶ月くらいで返事が届いた。全員が書いて出したのだが、返事は何通だったのだろう。なかにわたし宛があってびっくりした。手製の絵葉書になっていて、宛名は名前だけ書いてあった。戦地で敵に見られたら大変だから、まとめて機密書類にして返送してきたのだとのこと。

全体が黄色っぽい色調で、子供の髪を散髪している兵隊さんが描かれていた。さっさと描いたスケッチだがユーモアがあり、添えられた言葉もやさしくてうれしかった。
鼻高々で家に持って帰ったら、両親は一応喜んでくれたが、姉兄たちは「ふん、下手な絵やな」「お前に返事がくるなんてな」という感じで話にしたがらず。

戦地が移動するから宛先が決まらず、こちらから返事は出せないとのことで、交流はそれで終わった。戦地で子供に散髪してあげていた兵隊さん、それからどんな人生を送られただろうか。