エドワード・D・ホック『サイモン・アークの事件簿 V 』続き

ひとつだけ他と違う作品があった。
二つ目の「呪われた裸女」。なぜかサイモン・アークと〈わたし〉はニューヨークで私立探偵事務所を開いている。ドアを開くと〈わたし〉がいて奥の部屋にサイモンがいる。
開業から半年ほど経つと噂が広がり仕事がだんだんくるようになって、サイモンの部屋には骨董品の類いの置物が増えた。

ごく普通の私立探偵小説の発端のように依頼人ファミッジが登場して、仕事を頼みにコネティカット州から来たという。「どういうご用件でしょうか」と聞くと「厳密には裸になりたがる姪の件だ」という返事。おもしろそうだと奥の部屋のサイモンに取り次ぐ。
ファミッジの依頼は、裸になりたがる姪の男友だちジムが殺された。ファミッジは姪が警察に殺人者として逮捕されるのを恐れている。殺人事件の捜査は警察がするだろう。君たちに頼みたいのは姪にずっと服を着させておくことだ。そして姪が馬鹿なことをするのを阻止することだ。

ふたりはコネティカットまで行くことにする。電車でコネティカットくんだりまで行くのだからその姪は美人でなくてはならないと〈わたし〉は言う。駅に着くと裸になりたがる娘のジェーンが車で迎えにきていた。美しい娘である。
けったいでおもしろい短編小説だった。
(木村二郎訳 創元推理文庫 1100円+税)

〈冬ウツ〉から脱け出して捕物帳を読む

寒さ疲れで〈冬ウツ〉だと言ってるひとがいると、昨日の日記にミクシィでコメントしてくれた。そうね、わたしの〈なんとなくもの憂い〉も〈冬ウツ〉かもしれないと返事をしたら他にも自分もそうだというかたがおられた。〈なんとなく〉の正体がわかったから納得できて元気に(笑)。今日はよく家事をがんばった。エライエライと自分をほめる。

元気になったし今夜はエドワード・D・ホック「サイモン・アークの事件簿 V 」を読み終えたので感想を書くつもりだったが、選挙のこととかネットの書き込みに引っ張られるので明日にする。
ネットの合間に青空文庫で、林不忘「釘抜藤吉捕物覚書 のの字の刀痕」を読んでいるが、非常におもしろい。通りがかった家の前で勘次は「何だ、喧嘩か、勘弁ならねえ」と格子戸の前に立った。「勘弁ならねえ」というのが口癖で勘弁勘次というあだ名がついている。その家で血だらけの死体を見て、様子を見聞きした勘次は釘抜藤吉親分のところへまっしぐら。【秋の末、利鎌(とがま)のような月影が大川端の水面(みなも)に冴えて、河岸の柳も筑波颪に斜めに靡(なび)くころ】なんて美文にころりとまいってしまう。

ピーター・トレメイン『翳深き谷 上下』(3)

グレン・ゲイシュに着いた二人は来客棟へ案内される。他に客人がいるようなので係の女性クリーインに聞くと北の方の身分の高い方で、お二人と同じ神様を信じているとの答え。二人が食事を終えたときに客人ソリン修道士がもどってきた。ローマでしか見たことがない華美な法衣を着ている。噛み合ない会話をしているとき族長ラズラに面会にくるように迎えがくる。ここでラズラの妹オーラと夫で継承予定者のコーラ、ラズラの裁判官でもあるドルイドのムルガルを紹介される。
夜の宴の前に外で二人が話していると金髪の兵士ラドガルがやってきて、キリスト教徒であることを告げ、用事があれば手伝うと心強い申し出があった。

角笛による合図で宴会がはじまる。ソリン修道士と書記のディアナッハ修道士の席が隣である。エイダルフにとって気分のよくない会話になる。
音楽が始まると大胆にムルガルはキャシェル批判の歌をうたう。フィデルマは立ち上がってキャシェルの新しい歌を披露し、それはムルガルへの批判となり人々に感銘を与える。フィデルマは歌もうまいのである。

エイダルフは宴会のワインを飲み過ぎて気分が悪くそれがずっと続く。眠くて冴えないエイダルフであるが、フィデルマの危機に際してきりっと立ち上がる。
ソリン修道士が殺されているのを見つけたフィデルマが犯人とされてしまうのだ。法によりこれから9日間を隔離房で過ごしてもらうとムルガルは言う。エイダルフは法律書を読み理論でフィデルマの拘留を解く。そして二人で推理し行動する。驚くべき背景と矛盾が浮かび上がる。

ゆったりとした上巻から下巻はフィデルマの逮捕、そしてエイダルフの弁論と活躍でがぜんおもしろくなる。続く第二第三の殺人、恋あり活劇あり。そしてフィデルマの推理によりすべてが明らかになる。
(甲斐萬里江訳 創元推理文庫 上下とも 980円+税)

ピーター・トレメイン『翳深き谷 上下』(2)

フィデルマはモアン国王である兄コルグーに呼ばれて王の私室に行った。フィデルマによく似た長身、赤毛、色がさっと変わる緑色の瞳だけでなく身のこなしもよく似ている。兄は修道院を出てきた妹にここに住むようにすすめる。そしてサクソン人のエイダルフ修道士との結婚を口にする。フィデルマとエイダルフの仲を知っていての言葉だが、フィデルマはうなづかない。
和やかな話し合いのあとで王は肝心な用件を口にする。フィデルマに属領のグレン・ゲイシュに行ってほしい。その領地ではまだ古の神々を信奉している領民が多い。今回族長のラズラは当地でのキリスト教の教会設立などについて話し合ってもよいと言ってきた。そのための折衝の機会を持ちたいとのことで、王はフィデルマに自分の代理として行くように頼む。
戦士団を率いて行けという王に話し合いに兵隊を連れて行けないと断ると、せめて〈お前のサクソン人〉を連れて行けと兄王は言う。

ということで、フィデルマとエイダルフは険しい山道をたどっている。
グレン・ゲイシュに近づくと誰かに見張られている感じだ。そこへ大鴉の大群が旋回の高度を下げながら空に円を描いているのが見えた。その原因を見たいとフィデルマが言い、彼らは谷間を下っていった。そこには30体くらいの全裸の若者の死体が太陽回りに並べられていた。フィデルマは1体ずつ調べていく。エイダルフはどこかで殺されてからここに運ばれてきたと推定した。エイダルフの嫌悪の表情を見てフィデルマは「大鴉も、主の大いなる創造物ですよ。この“掃除屋”たちも、創造主によって定められた役割を担っている者たちではありませんか?」エイダルフは彼らは悪魔の創造物だと思うと反論するが、フィデルマに論破されてしまう。

途中やってきた騎馬団に無礼な扱いをされるが、「この国の王は、私がここで歓迎されなかったとお知りになれば、ご立腹になりましょう」と冷静に返して、いよいよ二人はグレン・ゲイシュに到着する。
(甲斐萬里江訳 創元推理文庫 上下とも 980円+税)

ピーター・トレメイン『翳深き谷 上下』(1)

修道女フィデルマ シリーズの長編6冊目、当ブログには「蜘蛛の巣」、「幼き子らよ、我がもとへ」、「死をもちて赦されん」、「サクソンの司教冠」の4冊の感想を書いている。
なぜか書いていない「蛇、もっとも禍し」はここにあるので、もう一度読んでから書くことにする。
短編集は「修道女フィデルマの叡智」、「修道女フィデルマの洞察」、「修道女フィデルマの探求」と3冊出ているが感想を書いてない。どこかにあるだろうし読んでいると思うので、いづれ調べて書くつもり。
アーカイブにある「アイルランド幻想」、「自分の殺害を予言した占星術師」はシリーズではないが、トレメインの著書である。

久しぶりのフィデルマシリーズ、出だしは上々だったが途中でしんどくなった。でも読み進むと下巻がすっごくおもしろくなった。フィデルマが殺人容疑者とされて拘留され、エイダルフ修道士が弁護にあたる。
下巻を二度読んで7世紀アイルランドの世界にひたった。上巻ももう一度読んで感想を書くことにして今日はおしまい。

荒俣宏編著『大都会隠居術』から宇野浩二、その連想で久保田万太郎

本書にはふだんは忘れている作家の作品が入っていてうれしい。永井荷風、谷崎潤一郎、内田百閒はわりと最近もなにかと読み返しているが、宇野浩二、里見弴あたりは忘れている。大岡昇平、稲垣足穂、江戸川乱歩も長いこと読んでいない。だから短編であろうと懐かしく読んだ。短編だから読めたわけだけど。

さっき今日はだれの作品のことを書こうかと見ていて、宇野浩二の名前を見たら突然、久保田万太郎という名前が浮かんだ。本書には登場しないし、それにまず、わたしは久保田万太郎の作品を読んだことがあるのかなぁ。
こどものころに家にあった文芸雑誌や日本文学全集の類いで読んだかもしれない。
で、こういうときの青空文庫だ。
タイトルが気に入った「三の酉」を読んでみる。男と女の会話がすごく気に入った。

わたしと女の会話。女は「十五の春から四十台の今日が日まで、三十年、ずッと芸妓をして」きた。
【五(章の最後のところ)
――一日だけ、あなたの奥さんになって上げるのよ。
――あなたの奥さんに? ……
――あなた、いま、いったじゃァありませんか、女のほうでマスクをかけてると、ちゃんとした夫婦として、人が彼これいわない……
――あゝ、それか……
――その代り、帰りの金田の勘定は、りッぱにあなたが払うのよ……

六(第六章はこれだけである)

……おさわは、しかし、その年の酉の市の来るのをまたずに死んだ。……二三年まえのはなしである。

たか/″\とあはれは三の酉の月

というぼくの句に、おさわへのぼくの思慕のかげがさしているという人があっても、ぼくは、決して、それを否(いな)まないだろう……】

ドロシー・L・セイヤーズ『学寮祭の夜』をまた読んだ

今週は会報仕事以外はずっと「学寮祭の夜」を読んでいた。今回は最初から最後まできっちり読んだ。この厚い文庫本になってからは何回目かな。ふだんは好きなところだけの拾い読みで全体を通しては読んでない。
昔から持っていた抄訳の「大学祭の夜」(黒沼健訳)こそは何十回何百回と言うほど読んでいる。引っ越しを何度もしているし、門外不出にするまでは友だちに貸していたのに、奇跡的にここにある。亡くなった姉にもよく寄越せと言われたっけ。妹が「なんで姉ちゃんが金盞花が好きかわかったわ」と文庫が出たときに読んで言った。関東にいるので読みたいと言っても貸してやらなかったから(笑)。こどものときから、わたしは金盞花が好きと言って、母親に「仏さんの花のどこがええんや」と言われていたのだ。妹はそれを小耳にはさんでいたみたいね。VFCサイト掲示板(いまはありません)で話題にしたときは何人かにコピーしてあげた。まただいぶ経ってから浅羽莢子さんの訳が創元推理文庫で出た。

そんなもんで分厚い全訳の文庫本を読みながらも、ハリエットとピーターの会話は古い本のその部分を思い出して口ずさむように読んでいる。ものすっごく憧れていた。貴族で金持ちで秀才でスポーツマンで、背がちょっと低めだけど。欲しいものはなんでも手に入っていたのに、ハリエットだけがノーと言った。
この物語を書いたドロシー・L・セイヤーズは、お金に困っていたから小説の主人公はお金持ちにしたとなにかに書いてあった。
ほんまに憧れのピーター卿なんだけど、ハリエットと知り合ってからは女性に対する見方が変わった。「学寮祭の夜」はピーターが変わっていき、ハリエットも意地を張るのをやめて、お互いに愛し合っているのを確認するとても素敵な物語なのだ。
(浅羽莢子訳 創元推理文庫 1320円+税)

荒俣宏編著『大都会隠居術』から内田百閒『特別阿呆列車』

さっきまでいろいろと用事をしていたら夜半を過ぎた。スタートが遅いからしかたがないが、この日記になにを書くかが決まらない。毎日のことだけど、テーマさえ決まればちゃっちゃと書けるのに。
それで、なんべんも読んだ内田百閒にしようと決めたのだが、今回は「百閒」の文字がちゃんと出るようになっていた。以前は百間と打ってから「間の中の日が月」と注釈をつけたものだ。

こどものころ家の本棚に「阿呆列車」が何冊かあった。父親が百閒先生のファンだったので他にもあったと思うが、そのころ読んだ本ではこの本しか覚えていない。
用事がないのに汽車に乗るが一等車でないといけない理由がある。食堂車で酒を飲む。大阪まで行くが一泊して翌日の昼の汽車で戻ってくる。お供はこども心にも楽しいヒマラヤ山系くん。編集者が見送りに来るので、百閒先生ってえらいんやと気がついた。

おとなになってからの話だが、阿呆列車の真似をしたいがお金がない。百閒先生のように錬金術をするほどえらくない。
その心持ちで京都とか奈良に行って、観光ではなくうろついて帰ってきた。その心は阿呆列車。これだけでも若いのに隠居生活やってたのがわかる(笑)。

最近はもう読まないが、猫と暮らしているときは「ノラや」「クルやお前か」を再読、三読した。そばに猫がいると、ノラやクルのことが他人事ではなくなっていた。
(光文社 〔光る話〕の花束5 1262円+税)

荒俣宏編著『大都会隠居術』から永井荷風『短夜』

1989年発行の本が本箱の隅にひっそりと入っていた。若くして隠居指向だったわたしが(笑)、当時人気の荒俣宏氏が編集した本ということで買ったのだった。
いま読んですごい本である。序「老いて成りたや巷なる妻子泣かせの放蕩児」からはじまって第1ステップ「都会隠居術事始め」、第2ステップ「都会に潜む悦楽」、第3ステップ「それぞれの隠居たち」、第4ステップ「そして、死との対面」となっていて、それぞれに荒俣氏が選び抜いた、有名無名の作家による文章がある。作品の前に荒俣氏の短い紹介文があるのがとてもよいのだ。

今回読んでしみじみ好きになった永井荷風の「短夜」(みじかよ)の紹介文から。
【「短夜」は現世の波にもまれるばかりで、真の男女の情交を味わえずにいる男たちへの、最大の慰めといえる。編者はこれを読み返すたびに全身がわななく。涙があふれてくる。(中略)都会隠居にぜひとも必要なのは、肉体の交わりを忘れさせるほど心打つ物語を、果てしなく語ってくれる伴侶なのである。】
「短夜」では、男の言葉と女の言葉が交互に語られる。無粋な電灯の灯を消して、小窓の外の夜の光に照らされた女の横顔の輪郭だけを四畳半の闇の中から区別している。【繊細な然し鋭いお前の爪先で弛んでしまった私の心の絲を弾け。】

この掌編ひとつでこの本を長年置いていた元が取れた気持ち。もちろんこれだけでなく他にも心惹かれる物語があるので、折々に紹介していこうと思う。
(光文社 〔光る話〕の花束5 1262円+税)

ピーター・キャメロン『最終目的地』

ジェームズ・アイヴォリー監督の作品の中で「最終目的地」がいちばん気に入ったと、DVDを貸してくださったT氏にメールしたら、「それはkumikoさんの腐女子成分の琴線に触れたからかも」と返信があった。それはそうかもと思う部分はあり(笑)。

すぐに原作をアマゾンに注文して、すぐに読んでしまったが、ずいぶんと余韻が残っている。すごーく静かな作品なのだ。400ページを超える長い物語なのに、長さを感じさせない、ただ最後まで静かなのである。

ストーリーは映画とほとんど同じなのでここでは違う箇所だけ。

作家グントの兄アダムの恋人ピートは映画では真田広之がやっていて、徳之島生まれの日本人で15歳のときから知り合って25年ということだったが、原作はタイ人でもっと若い。映画ではここが最終目的地だと言っていたけど、原作は違っていた。どっちもなるほどと思えた。

主人公オマーは小説も映画も同じように静かで考え深い青年。イランのテヘラン生まれの移民で父親は医者で息子も医者にしたいのに、彼は文学を選んだ。彼を主人公にしたのでこの作品が成立したのだと思う。恋人のディアドラはアメリカ女性としてすごくいいひとなのに、すれ違うところがある。

ついにキャロラインから伝記執筆OKが出たが、オマーは書かないと決める。
アメリカに戻ったオマーはディアドラと別れて、アーデンに会いに再びウルグアイに行く。
ウルグアイの屋敷の枯れた湖にアダムとグントの両親がベネチアから運んできた船が置いてあった。蜂に刺される前にオマーとアーデンはその船ではじめて抱き合ったのだった。

キャロラインとグントがウルグアイに住んだわけもわかった。キャロラインの妹が死んでニューヨークのアパートを姉に遺した。キャロラインはニューヨークにもどって暮らすことにする。実は昔ニューヨークに住んでいたとき、妹とグントが恋人どうしだったのをキャロラインが奪い、グントとふたりでウルグアイに逃げたのだ。

物語の終わりは数年後のニューヨーク。オペラ「ホフマン物語」の幕間。観客の中にディアドラはキャロラインを見つける。二人とも男性とともに盛装していて美しい。次の幕ではベネチアの舟歌が歌われる。

オマーが他の南米の作家について書いた本が刊行されているのをディアドラが書店で見つけて買う。著者紹介で、オマーは妻と二人の娘とともにウルグアイ在住と記してあった。

装丁がおしゃれで内容とぴったり。
(岩本正恵訳 新潮クレストブックス 2400円+税)