新町演舞場(わたしの戦争体験記 50)

もう30年も前だが関東在住の次兄が小学校の同窓会があって西六小学校へ来たことがあり、あちこち案内するとこどもの頃の記憶をたどって「ここがうちの家があったとこや、演舞場はそこやさかい」といった。そのとき新町演舞場は「大阪屋」という書籍販売の会社になっていたが、昔の受付がそのまま保存してあるのを懐かしそうに眺めていた。その斜め向かいに我が家はあったそうな。
「新町演舞場」跡を起点として考えて「我が家はここやった」と落ち着いたのは、その当時は運送会社の車庫や社宅があるところ。いまはスーパーライフが建っている。

わたしらがこどもだったころはぎっしりと木造家屋が立ち並んでおり、その間に狭い道や路地があった。川沿いには広い道があって川には橋がたくさんかかっていた。よく遊んだり走ったりして覚えているのは「白髪橋」と「問屋橋」。いま問屋橋があったところに立つと、スーパーライフはすぐそこだ。あそこらへんまで走って帰ったんやと懐かしい。

いまも少し西へ行くと道路沿いに戦災から焼け残った細野ビルがある。当主の細野さんが頑張って世話をしているから往時の面影が残っている。とはいえ、わたしには昔の細野ビルの記憶はいっこもない。ビルに入れてもらうと昔のままのカウンターがあって執務室はいまはホールになっていて、立派な書棚がある。隣りの社長室も往時のまま残してある。
当時の細野ビルの写真を使って毎年行われる「細野ビル66展」の案内ハガキが作られている。ビルの横の道路や川、電車、建物、人物がいっしょに写っていて、一度は小学校の講堂が入っていた。おお、見覚えある。ここで入学式をやったんや、映画を全校生が見たんやと懐かしかった。東側から歩いてきて東側にある校門を入り、低学年は昔からある木造校舎だったので、校庭の西側にある新校舎には催しのあるときしか入らなかった。

わたしは国民学校4年生の一学期までしか行ってないから新町演舞場は「えんぶじょう」としか覚えていない。芸者さんの踊りの会などあったらしいけどなにも知らない。覚えているのは一回だけ入場無料の「衛生博覧会」に行ったことだ。細長いガラス瓶に入ったホルマリン漬けの臓器とか並べてあって、気持ち悪かったのだけはよく覚えている。
ぜんぜん新町演舞場らしくない記憶ですみません。

大阪屋さんは引っ越して演舞場は整地され跡形もなくなった。今その土地にはタワーマンションが建っている。

とんとんとんからりと隣組(わたしの戦争体験記 49)

なぜかいまだにときどき口に出てくる隣組の歌「とんとんとんからりと隣組、格子を開ければ顔なじみ、まわしてちょうだい回覧板、教えられたり教えたり」
歌詞は多分間違ってないはず。ラジオからしょっちゅう流れていていたのがいまだに口にくっついている。

「コトバンク」の解説を読むと「江戸時代からの五人組は昭和になると都市では消滅したが、日中戦争以後に政府は国民精神総動員運動を企画した。1940年10月大政翼賛会の運動に引き継がれて・・・」と説明されている。
要するに、政府の思惑により外郭団体などが企画して国民生活の隅々まで支配しようということで、大阪新町に移り住んだ我が家も隣組に組織され、回り持ちで組長になって回覧板をまわしていた。

わたしは国民学校4年で疎開したので、その後のことは知らない。1年から4年の一学期が終わるまではずらりとハンコを捺した回覧板をお隣りさんにまわしに行ってた。配給とか灯火管制とか生活にかかわることはすべて上からの指導によって行う。それを軽快な歌を歌いながら運ぶ。

そういえば疎開から帰って住んだ家にも隣組があったが、みんな隣組といいながら自治会と名称が変わっていた。わたしの母親は婦人会の会長をしたりして活発な活動をしていたように思う。有志が集まって頼母子講なんかもやっていた。

姉が結婚して義兄が育ち暮らしてきた家に住むようになった地域には自治会があった。結婚して間もなく会計係に任命されたとかぼやいていた。その地域はいまも自治会が続いていて、とんとんとんからりんと戸を叩いてお隣りへお知らせなどを持っていっている。先日姉の代わりにわたしが持って行くと玄関はベルになっていた。玄関先での立ち話は昔のとおり。

懐かしの路地〈ろーじ〉(わたしの戦争体験記 48)

先日、四ツ橋筋まで行った帰りにいつもより一筋北寄りの道を通った。その路地は南北に通っている。南のほうの道から入って北へ出て西へ向いて歩いたら新町1丁目から2丁目になる。

ここの路地は80センチ×30センチくらいの石が自然にうまく組み込まれている。掃除が行き届いていてとても素敵だ。
戦災で焼ける前はうちの家から出たところもこんなんやったと相方に説明した。路地の入り口にはお好み焼き屋さんがあって、仲良しのさかえちゃんの家はこの辺と思い出した。奥の反対側の出入り口には陸軍軍人のお父さんがいるおうちがあった。町会長をしていて徽章がいろいろついた軍服を着て髭を生やしてはった。

大人の事情はよくわからなかったが、貧乏人の子沢山だったわたしの父親が東京での仕事がうまくいかず、新町に住む姉に相談したようだ。それで一家あげて新町にきて姉の住んでいた家に住むことになったみたい。家は路地を入ってすぐのところにある二階建てで小さな部屋が多く中庭があった。新町2丁目で路地のあとも残らず焼けてしまったのに、いまも路地がそのまま使えているところもあるのが運の差なんだろう。

戦地との交流(わたしの戦争体験記 47)

戦争中の学校にはいろんな戦争協力の行事があった。朝登校すると、校庭の(あれなんていったろう)天皇の写真が祀ってある小さな祠に頭を下げる。前を通るときはいつでも頭を下げるようにいわれていた。たいてい忘れてたけど。「君が代」を歌うときは祠に向かって歌う。それから「教育勅語」と「青少年学徒ニ賜ハリタル勅語」を叫ぶときも。

国民学校2年くらいのとき、戦地へ手紙を出そうという授業があった。兵隊さんに手紙を書けといわれて、あたまをしぼって書いた。知らない人に手紙を書くなんてとぶつくさいう子がいたが、兵隊さんはわたしたちのために戦っているんだからと先生がいって全員が書いた。みんな「兵隊さん、お元気ですか」と書いて書き止まってしまう。次に「わたしも元気で学校に通っています」である。なんとか書き上げて先生にわたすとまとめて戦地へ送ってくれた。

1ヶ月くらいで返事が届いた。全員が書いて出したのだが、返事は何通だったのだろう。なかにわたし宛があってびっくりした。手製の絵葉書になっていて、宛名は名前だけ書いてあった。戦地で敵に見られたら大変だから、まとめて機密書類にして返送してきたのだとのこと。

全体が黄色っぽい色調で、子供の髪を散髪している兵隊さんが描かれていた。さっさと描いたスケッチだがユーモアがあり、添えられた言葉もやさしくてうれしかった。
鼻高々で家に持って帰ったら、両親は一応喜んでくれたが、姉兄たちは「ふん、下手な絵やな」「お前に返事がくるなんてな」という感じで話にしたがらず。

戦地が移動するから宛先が決まらず、こちらから返事は出せないとのことで、交流はそれで終わった。戦地で子供に散髪してあげていた兵隊さん、それからどんな人生を送られただろうか。

産めよ増やせよ(わたしの戦争体験記 46)

わたしが子供だったころ、うちは「貧乏人の子沢山」といつも両親が自嘲気味にいってたけど、ラジオや新聞や町内会から「産めよ増やせよ」と聞こえてくる声に「うちは子沢山でよかった」と最初のうちは思ってたみたい。うちの子供は、女、女、男、男、女(わたし)、男、女である。下から二番目の男がジフテリアで亡くなり、産んだのは8人だが育ったのは7人だ。
「子供は7人おりますねん」と子沢山を自慢しているうちはよかったが、すぐに戦争に行く男がいないことで批判されるようになった。姉2人がちょうど戦争に行く年齢なのを女だからと免れ、男2人は兵役年齢よりちょっと若くて学徒動員で工場で働かされた。父親は少し高齢なのでちょうど戦争にとられずにすんだ。戦争がもうちょっと長引けばとられるところだった。

母は町内会で掃除とか集会とかがあると必ず参加するようにしていた。陰口が聞こえてきたが、正面からも嫌味をいわれるようになりくさっていた。でも、それでも戦争にとられずに生きているだけでもええわと小さな声でいってた。

わたしが子供を持ちたくないと思ったのは戦時体験が基本にあるからだ。小学校の1年生で大東亜戦争(太平洋戦争)がはじまって、4年生夏に疎開、4年生の終わりに大阪大空襲で家が焼失、5年の夏に敗戦、6年生で大阪にもどったがきょうだいはあちこちに分散。長い貧乏生活にこんなこともういやだと思った。さいわいに父母きょうだいに可愛がられもせず、自分が稼いだ乏しいお金で自由に生きてきた。

ピンクの鼻緒(わたしの戦争体験記 45)

今日の大阪はとても暖かい。山梨県はまだ雪解けの季節になってないだろうけど、雪解けっぽい暖かさの大阪で回想する。

わたしの覚えている山梨県(約70年前)は、雪は降るがそんなに積もらなかった。積もっても30〜50センチくらいで、それでも田んぼとか道路とか一面の雪景色になる。はじめて雪が降って庭も道路も真っ白な朝は感動した。学校に着くまで雪をかき分けるようにして歩いた。下駄に雪が溜まるので、落とし落とし歩いた。すぐに止まっては下駄どうしの底をばたばたとはたいて雪落としした。雨と違って降りたての雪はぐじゃぐじゃにならないからよかった。

その最初の雪の日からときどき雪が降るようになった。普通の下駄ではラチがあかないので、とっておきの高下駄を出した。母が持たせてくれたピンクの鼻緒がついているおしゃれな下駄でまだ履いたことがなかった。学校ではみんなに取り囲まれて鼻が高かったが、すぐに雪まみれ泥まみれになった。あるとき下駄箱からなくなったので先生に届けたらすぐに見つかって、先生は「どんな高価な下駄かと思ったらこれかあ」とあきれ顔。盗む気がおこらんって(笑)。

雪解けが始まると道路はどろどろで下駄も足袋もどろどろになった。叔母さんの機嫌が悪いので自分で洗ったが、絞るのに力が足りなくて水がだらだら。仕方ないから素足で学校へ行っていた。
ピンクの鼻緒の高下駄は履かないで見ているとすごく可愛かったが、結局は履きつぶしてしまった。

後醍醐天皇 その1 村松剛『帝王 後醍醐』(わたしの戦争体験記 44)

後醍醐天皇とタイトルをつけたが、わたしは後醍醐天皇についてなにかいえるような知識を持っていない。だいたいが、この「わたしの戦争体験記」を書き出したら後醍醐天皇という名前が飛び出したのだ。国民学校(小学校)の遠足が「笠置」だったのを思い出し、笠置で後醍醐天皇のことを教わったのを思い出し、楠木正成の「櫻井の子別れ」の歌を思い出した。

最近、日本の中世に興味を持って勉強をはじめた夫が「こんな本があるで」と教えてくれたのが『帝王 後醍醐「中世」の光と影』(村松剛 中公文庫)だった。図書館で借りてきてくれたので読み出したらやけにおもしろい。村松剛さんは安保闘争のころは右のほうにいた人だ。左のほうにいたわたしはちょっとひるんだけど、読み出したらすごくおもしろい。図書館で借りた本は読みにくいので文庫本を買ってゆっくり読むことにした。まだ5分の1くらいしか読めてないが、この本は完読するつもりだ。

最後に「吉野の秋」「南朝残映」というちょっとせつない章がある。そしてあとがきでは「後南朝については谷崎潤一郎の『吉野葛』もあり、なかば伝説の霧につつまれているだけに主題としてたしかに魅力的です。」でも書き加えると紙数が増えるからと本書は終わりにした。

ここを読んでびっくり。『吉野葛』持ってるぞと文庫本を探したらあった〜
本を買ったときに読んで忘れてた。次回はこの本の感想です。後醍醐天皇になかなかいきつかないけど、本を読みながら謎解きしていこう。
(中公文庫 1981年発行 600円)

山があってもやまなし県(わたしの戦争体験記 43)

西六国民学校へ通っていた3・4年生のとき、クラスの子たちがこんな歌を歌っていた。「すべってころんでおおいた県(大分県)、山があるのにやまなし県(山梨県)ほいほい」というのである。なにか校庭で集合するときとか、みんなで行進するときに誰ともなく歌いだす。
わたしはそのやまなしけんへたった一人疎開したわけだが、うたはわたしに向けて歌ったわけではない。うたはうたで語呂合わせのようなものだった。

山梨県はほんまはやまあり県で、どっちを向いても四方に山があった。どうしたらあの山の向こうへ行けるのか小さな胸を痛め、小さな頭で脱出方法を考えたが、むろんのこと、脱出不能ということがわかっただけだった。
まわりの山が全体に低いのだが、途切れなく囲んでいるのがうざかった。低い山の間に高い山もあって、富士山も見えていた。毎朝山々を眺めるのが気分良い日もあったが、暗い気分の日のほうが多かった。「山があってもやまなし県、すべってころんでおおいた県」と大きな声で叫んでも返事は返らず。

中原淳一と松本かつぢ(わたしの戦争体験記 42)

中原淳一が好き。淳一先生が一番で二番はないのだけれど、松本かつぢ先生は違った意味で好きだった。淳一の描く少女が『小公女』のセーラとしたら、かつぢ先生のくるみちゃんは近所の子の感じ。あくまでも少女のわたしが感じたところである。わたしの中でセーラは王女さまだったから、二人の画家についても子供ながらにこんな感じを持っていた。

疎開する前に二番目の姉が「これあげる」と自分の大切なものバッグから紙の着せ替え人形をとり出した。前から欲しかったくるみちゃんの着せ替え人形だったが、人形だけでなく素晴らしいドールハウスがあった。紙で一面だけを開けて周囲を囲った部屋に家具がうまく収まっている。本箱に並んだ本にはタイトルがちゃんと印刷してあった。テーブルや椅子が置かれテーブルの上には食器が並んでいる。立っている家具のすべてにつっかい棒がついていて前からは見えないように作ってある。
「ほんま?ほんま?」と大喜びでもらいうけ田舎に持って行ったが、近所の子に見せびらかしたらすぐになくなってしまった。

それからは着せ替え人形を自分で作った。淳一先生の少女全体像をなぞって描いて切り抜く。脚を交差させて靴を履いている。その上に着せ替えるドレスやスーツや着物を描いては切り取る。バッグはどうしようとか、レインコートには傘がいるかなとか想像するのも楽しかった。服や着物は古い『少女の友』や『主婦の友』を真似して、どんなバッグを持たせたらいいのかとか考えるのが楽しかった。少女小説の物語を頭の中でつくって、主人公の少女は淳一スタイル(笑)。戦争中で甲府市は空襲で焼けているというのに、アタマの中は金持ちの少女だったり、貧乏でも健気な少女だったり、空想は自由で。ご飯はすねりもちであっても紙とはさみと色鉛筆があれば幸せだった。

着せ替え人形つくりは戦後もやめることなく続き、ドレスの見本は『スクリーン』や『映画の友』『ひまわり』『それいゆ』からいただいて尽きることがなかった。ストーリーは父が古本屋で買ってくる海外ミステリーからいただいた。やがてドロシー・L・セイヤーズにたどりついたときのうれしさ!そのときは着せ替え人形からは卒業していた。

まずいものは、すねりもち(わたしの戦争体験記 41)

「うまいものはかぼちゃのほうとう」は山梨出身の母の言葉である。甘いかぼちゃの入ったおほうとうはほんまにうまかった。いまその続きの言葉を思い出したところ。続けて「まずいものは、すねりもち」というのである。すねりもちは、干したとうもろこしを粉にしたのを水で混ぜて火にかけてとろとろにしたもの。ぶつぶつと煮えて見た目もうまくなさそう。ほんまに全然うまくないし匂いもよくない。
これが朝食に出ると家族全員からため息がもれる。兄は食べずに茶碗を母の前にもどして学校へ行った。どこかで食べ物を調達できるのだろうか。どこかで木に生っている果物にでも出会えたのだろうか。いまになってちょっと聞いてみたい気もする。

とうもろこしはどんな畑でも育ってよく実るらしい。皮をむいてぶら下げて干して、実をとってまたザルで干して、水車小屋に持って行って挽いてもらった。粉になったのを熱して食するわけだが、味がないというかうまくなかった。まさに、まずいものはすねりもちだった〜