ジョセフィン・テイ『歌う砂』を4年ぶりに読んでいる

この間なにげなく本棚から抜き出してちらっと開いた「歌う砂」がおもしろくて最初から全部読んでしまった。
日記を書いておくとなにかと便利だ。「ジョセフィン・テイ アーカイブ」をたどると最初に読んだのは2010年である。あのときもずいぶんと興奮したけど、いま読んでもステキ。その勢いで前回は図書館で借りた「裁かれる花園」をアマゾンの中古本で注文した。届くのが楽しみ〜

グラント警部は典型的なイギリスの独身男である。こどものいなかったおばが亡くなって少なくない財産を譲られた。そのお金で刑期を終えた出獄者と偶然に出会えるように牢の側に小さな食料雑貨店をもっていることは「列の中の男」で語られている。

神経症に悩まされて休暇をとったグラント警部はロンドンから列車でハイランドへ到着する。従姉妹のローラとトミー夫妻の家でのんびり釣りでもするつもりだった。列車を降りるときに若者の死体に出くわす。調査では旅券などでフランス人の死者とされ、事件性はないとされた。
死者が持っていた新聞に書き付けられた言葉がグラントのこころから消え去らない。

しゃべる獣たち
立ち止まる水の流れ
歩く石ころども
歌う砂

新聞に心当たりのある人はいないかと新聞に広告を出し、川で釣りをしているとコレンが尋ねてきた。コレンはパイロット仲間のビル・ケンリックとパリで待ち合わせたが来なかったという。なぜビルはフランス人として死んだのか。

ローラはグラントに子爵未亡人ゾーイを紹介する。若々しく自然で少女のようなゾーイに惹き付けられたグラントだが、ゾーイとの釣りよりも謎の殺人の解明に興味をもつ。
【・・・グラントはビル・ケンリックに、もう一つ借りを作ったことに気づいた。ビル・ケンリックは、グラントがゾーイ・ケンタレンに恋するのを防いでくれたのだ。あと数時間のところだった。もしあと数時間二人きりでいたら、恋に落ちていただろう。】

核心に迫ってもう少しのとき、グラントはコレンと話し合う。二人が知っている同じ匂いがする男たちのことを例にして。
【・・・世の中の他の連中がみんな違うのと同じようにな。ただ一つ、共通の特徴は、病的なまでの虚栄心だ。】
(鹽野佐和子訳 論創社 1800円+税)

辻原登『寂しい丘で狩りをする』

辻原登さんの作品をはじめて読んだのは朝日新聞に連載された「花はさくら木」で、ものすごくおもしろかった。そして連載が終るとすぐに単行本を買って何度も読んだ。それからは図書館で7・8冊借りて読んでいる。
今回は「週刊現代」の著者インタビューで知ってすぐに読みたくなり書店に走った。好みの小説を読むときのクセですぐにさっと読んでしまい、もう一度ゆっくりと読み直した。もう少し時間が経ったらまた読むつもりだ。

映画編集者の野添敦子は長いタクシー待ちの列を並んで待っているとき、後ろにいた男性に行き先を尋ねられた。答えると自分も同じ方向に行くからと同乗を申し込まれて承知する。この押本が悪い奴でタクシーが着くと、敦子とは反対側に行く振りをする。そして彼女が道を曲がると追いかけて公園の林で背後から襲い、マンションのゴミ置き場に引きづりこんで強姦し、性的快感を高めるためにそこらにあった電気コードで首を絞めて傷害を与えた。その後奪ったバッグを調べて彼女に電話し「あんたの秘密を10万円で買ってくれ」と言い、それをしないと会社の人に言うし、もし警察にしゃべるとえらい目に遭うぞとおどす。
敦子は警察に届け出た。
押本は逮捕されて裁判が行われ、敦子は勇気をふるって証言した。押本は7年の刑を言い渡され福島刑務所に拘束された。

それから7年が経とうとしている。
フリージャーナリストの瀬戸が敦子も出席している仕事のパーティで、福島刑務所にいる押本が娑婆にもどったら敦子を襲うと言っているのを別の犯罪者に聞いたと話す。

敦子はイビサ・レディス探偵社の腕のいい女性探偵、桑村みどりに仕事を依頼する。
みどりは刑務所の出口から押本の尾行をはじめた。押本は着々と敦子を襲う計画を進めている。
みどりには敦子のことは他人事ではない。自分も野球場で知り合った久我からの虐待に苦労しているからだ。有名な芸術一家の出でカメラマンの久我は申し分のない外見で、人の目には優しい男だが中身はとんでもないやつだ。

押本も久我も自分のものと決めた女を陵辱するためにはなんでする。ひたすらそのために生きている。
警察に届けても犯罪が行われない限り動いてはもらえない。
ひたすら逃げていた女たちが復讐するとき・・・

敦子は古い映画の復元作業を成功させたことで自信をつけ、恩師の求婚を受け入れる。
みどりは自分が受け持った事件で知り合った会社員と結婚の約束をする。
4人が集まった最後がとってもよかった。
(講談社 1600円+税)

ジェシカ・ベック『エクレアと死を呼ぶ噂話』

ノースキャロライナ州の小さな町の小さなドーナツ店〈ドーナツハート〉のオーナー、スザンヌ・ハートが活躍するシリーズ4冊目。

スザンヌは毎日が午後7時にベッドに入って起きるのは午前1時という生活である。暗い中をジープで店に出かける。店に着くと粉をこねてドーナツを揚げカウンターを拭いて、夜が明けたころに最初の客を迎える。そして昼の12時には閉店して昼食にする。
ある夜、眠りかけているときにラジオから〈ドーナツハート〉という声が聞こえた。ラジオ局のニュースキャスター、レスターの声がドーナツは命を縮める食べ物だから〈ドーナツハート〉のドーナツを食べないように言っている。スザンヌは怒りに震えて起き上がり、ラジオ局へ行ってレスターを罵倒し派手な大げんかをする。
翌日、〈ドーナツハート〉のエクレアを口にはさまれたレスターの死体が発見され、警察がやってきた。エクレアは間違いなくスザンヌの店のもので、警察は彼女を容疑者とみている。店の客足が遠のいていく。
今回もまたスザンヌは真犯人を見つけようと親友のグレースと聞き込みにまわるが、レスターは口が悪くていろんな人間を攻撃してきたから調査も大変。

売れ残ったドーナツは教会に持って行くことにしているがまだ前日のが残っているほど。今回は病院の看護士さんたちにも持って行ったり、人にあげることが多い。そんなことだから材料費とアシスタントのエマの給料を払ったら経営はやっとこさである。そうでなくともまだ食器洗い機が買えずに手洗いをしていてグレースに呆れられる。

いつものように住人たちに楽しい?聞き込みをして歩く。恋人のジェイク・ビショップ警部が今回はこの町の警察の捜査の助けをすることになるが、スザンヌのことは心配はしても信頼が基本にあるから昔のように怒らなくなった。
お母さんを以前から熱愛している警察署長さん。スザンヌを熱愛しているジェイク。母と娘に幸せがやってきそう。
(山本やよい訳 原書房コージーブックス 860円+税)

藤枝静男『悲しいだけ・欣求浄土』

静かに読み終った。〈私小説〉がこんなに新鮮に読めるとは思っていなかったので、いい機会をもらったものだと感謝でいっぱい。

『欣求浄土』から「一家団欒」と『悲しいだけ』から「雛祭り」
私の父は70歳で、兄は36歳で、姉は18歳で、もう一人の姉は13歳で、弟は1歳で、妹も1歳で、全員が結核で亡くなった。そして妻は39年間の結婚生活の最初の4年以外は結核と闘病したが亡くなったとある。もう少し時代が後だったら結核での死は免れただろうに。

実家の墓には彼ら全員が眠っている。
私はまだ妻が動けたときにいっしょに墓地へ行った。熱心に墓掃除をして、
【花を差し水を石に注ぎ叩頭して手を合わせたとき、後ろに立っていた妻が不意に
「わたしはこの墓に入るのはいやです」
と云った。暗黒のコンクリートの穴のなかで見識らぬ私の肉親たちにひとり囲まれるという恐怖が、妻の短く低い呟きに鋭く現れていた。帰途
「暗い土に埋まってひとりでに溶けて、それから水になってどこかへ消えてしまいたいのよ」
と柔らかく弁解するように云った。】

その後、妻が亡くなってから墓参りをしたとき、私は墓に妻の死を報告し、「私が死んだとき連れて行きます」と心の中で云う。私がいっしょに行けば妻も安心だろうしみんなも喜ぶだろう。それまでは妻の遺骨の入った骨壺は側に置いておく。
藤枝さんがお亡くなりになったとき、近親のかたがそう取りはからったことでしょう。
(講談社文芸文庫)

藤枝静男『田紳有楽』

先日のこと、雑誌「ワイヤード」vol.11 に〈WIRED大学/21世紀の教科書/「新しい世界」を考える42冊〉という記事があった。その中に藤枝静男の「田紳有楽・空気頭」(メディア美学者の武邑光裕氏が選んだ6冊中の1冊)が入っているのが気になった。名前は知っていたけど読んだことのない作家なので。
すぐに買って「田紳有楽」から読み出したのだけれど、どうにも歯が立たない。骨董の売買をしている男が骨董の価値をつけるために家の庭にある畳4枚ほどの池に皿やぐい飲みを沈める。そこにはいろんな生物が居着いている。そこへ買ってきた金魚を放すと、やがてぐい飲みと金魚が恋をして性交しこどもが産まれる。

ここらへんまで読んだらついていけなくなって、「空気頭」を読み出し、これも前半を読み終わったものの後半ががらりと変わるところで挫折した。
そこで、藤枝静男の本がもう1冊同じ文庫で出ているのに気付き「悲しいだけ・欣求浄土」を買った。こちらは「私小説」として静かに読めた。藤枝静男がどういう人だったかもわかったような気持ちになり、再び「田紳有楽」にもどる勇気がわいてきた。

もう一度読む気になるまで、ロマンチックなメアリ・バログ「秘密の真珠に」を読み、よしながふみのゲイの美青年が出てくるマンガ「西洋骨董洋菓子店」を読み、昨日はサガン「失われた横顔」を読んだ。

主人公の住む一軒家の庭には池があり、池の側にはユーカリ、ニセアカシア、夾竹桃、八つ手などが植わっている。主人が二階に上がると一人の男がいた。彼は話の後に「ではこれで」と池にピチャンと飛び込んだ。彼は池に沈められた陶器のうちの一個である。
話は変わって、「私は池の底に住む一個の志野グイ呑みである」とグイ呑みが語り出す。主人が多治見でもらってきたのを出がらしの茶につけられたりしたあげく池に放り込まれた。二枚の皿、一個の丼鉢、一個の抹茶茶碗と同居して池の底に沈んでいる。みんな中途半端な品物なので主人はこうして値打ちをつけようとしている。
今年の春先に縁日で買ってきた三匹の金魚が池に放たれた。うるさいなと思っただけだったが、小柄で丸やかな女出目金C子の姿を見てドキリとする(ドキリとしたのはグイ呑みである)。それからグイ呑みとC子の恋話が続く。
【「子供を生め、子供をつくろう」
と私は叫んだ。C子はそれに和して叫んだ。
「山川草木悉皆成仏、山川草木悉皆成仏」】

その次に現れるのは「柿の蔕」(かきのへた)と呼ばれている抹茶茶碗である。

なんとも面白い小説と思えるようになるまでずいぶんかかったが、面白いと思えるようになってうれしい。
(講談社文芸文庫)

サガンを読む雨の土曜日

寒い土曜日、気がついたらいつのまにか雨が降っている。こんな日は静かに読書ですね。フランソワーズ・サガンの本を引っ張り出した。
この本はもういらないと整理するつもりが、やっぱり捨てるのはもったいない置いておこうとなる。サガンの本は60年代から出たのをみんな買っていた。おおかた捨てたがすこしだけ残してある。
いちばん好きなジョゼの物語が「一年ののち」「すばらしい雲」「失われた横顔」とあって、2冊はわりとよく読んでいるが「失われた横顔」は最近読んでないので開いてみた。もしおもしろくなかったら捨てよう。この続き物語は3冊目はかなり後になって出たと記憶しているが、サガンはジョゼを幸せにして物語を終らそうと思ったみたいに理想的な相手が出てくる。それを思い出して、もう読まないなら捨てようかなと思ったのだが、微妙なところで置いておくことにした。まわりくどくてすみません。

ジョゼはアンニュイな雰囲気のパリに住む女性で恋のアバンチュールにこと欠かない。結婚したのは金持ちのアメリカ人のアランで病的に嫉妬深い。ジョゼがいくら逃げても執拗に探し出す。いまジョゼとアランはパリへ来て社交界に顔を出している。アパルトマンに帰るとアランはジョゼが話をした相手のことなど執拗に責める。
ジョゼをアランから引き離すのに手を貸して、別れた後の生活を支えてくれたのが社交界の大物である実業家のジュリュスで、彼もまたジョゼに執着する。自由と思ったのは大きく広げた男の手の中にいただけだった。そしてついにほんとうの愛を手に入れて物語は終る。

よしながふみ『西洋骨董洋菓子店』全4巻

長い間少女マンガを愛読していて「別冊マーガレット」とか「少女コミック」を買っていた。それらが単行本になったのをけっこう買っていたがいつのまにか処分してしまった。少女マンガはそこまでで、その後は「ビッグコミックオリジナル」を毎号買っていた時代が長くあった。それから「攻殻機動隊」があって、それ以来ご無沙汰している。

わたしよりはずっと若い40代の人たちも、大島弓子、萩尾望都、竹宮恵子を読んでいるけど、あの時代の熱狂とはちょっと違うだろうなと思う。いま思い出したが、倉田江美「栗の木のある家」好きだったなあ。サガンみたいで。そういえば主人公と友人がサガンの小説が好きよというシーンがあったなあ。切り取って綴じてあったが、紙が古くなってたので切り抜きを整理したとき捨てたんだった。ああもったいない。

さて、よしながふみ「西洋骨董洋菓子店」。
よしながふみのマンガは「大奥」を出たときに借りて読んでいた。あまり好みでなかったのですっかり忘れてた。今回はすごく気に入って楽しく読んだ。
「西洋骨董洋菓子店」は4人の男性がケーキ屋を開く話である。お坊ちゃんだった橘がケーキ店をやろうと計画し、ゲイですぐに若い子に手を出してその店に居られなくなる天才パティシエと、元プロボクサーだがボクシングができなくなった青年が弟子となってパティシエを目指す。橘の実家で家政夫をしていた小早川がやってきて4人になる。
「西洋骨董」というのはケーキ屋の店名である。おいしそうなケーキがどんどん出てくる。どれもこれも食べたくなるケーキ。そして美形が4人。
(新書館1-3巻 520円+税 4巻 530円+税)

整体と内田百閒『おからでシャムパン』

今日は整体の2回目に行った。からだが柔らかくなったみたいな気持ち。時間を見たら1時間経っていた。眠っていたのかぼーっとしていたのか気持ちよくてあっと言う間だったなあ。いまもこのまま横になったらすやすや眠ってしまいそうだ。
先週治療してもらってから、膝や腰の調子が上向いているような気がする。おととい姉の家から帰ったときも以前の疲れ方からするとだいぶマシだった。いい整体院を見つけてラッキー。それがご近所さんなのもラッキー。

昨日も読んでいた内田百閒の「猫の耳の秋風」に入っている「おからでシャムパン」を再読。
うちの晩ご飯もおからがついたから。うちのおからはわたしの自慢料理で以前は海老や椎茸を入れたりしていたが、最近はシンプルにニンジンとゴボウと薄揚げとネギだけである。薄いベージュっぽい色のおからにニンジンのオレンジ色がよく似合う。よく炒ったおからはほんとにうまくて、機嫌良く食べているのだが、百閒先生のはもっと高雅なのである。
おからを布巾に包んで水を流しよく揉む。水を切ってすり鉢に移してすりこぎで摺る。それからおからに色がつかないように味付けする。入れるのは銀杏だけで、最後にレモンをしぼる。
お膳におからの小鉢とシャムパン(シャムパンがお膳に上がるまでの話があるのだがここでは省略する)で一献。

うちはその他に4品のおかずがついてうまい晩ご飯だった。いくら百閒先生推薦でも、おからはうちのがいいなと言いながら食べた。おからを洗ったら栄養が抜けるんとちゃうかという意見が出たが、布巾がはずれてみんな流してしまうというのがアタリかも。
(六興愛蔵文庫 内田百閒作品集)

内田百閒『猫の耳の秋風』

積み重ねてある本の中に内田百閒が見えたので掘り出した。ずいぶん昔に読んだままで置いてあった。昭和57年発行ということは1982年、へえっパンク・ニューウェーブに夢中の時代に買ったのか。そういえばパンク少年少女たちには読書家が多かった。うちの本棚を物色していたミュージシャンがいたっけ、と遠い目。

わたしが百閒先生の本を最初に読んだのは父親が買っていた文芸雑誌で「阿呆列車」。なにがおもしろいのかわからんのにおもしろかった。その後、夏目漱石の弟子であることや造り酒屋の実家が破産してお金が無くなって借金の名人ということなど知った。ノラという猫が行方不明になったことも知っていたが、この話が身にしみたのは猫の花子がうちに来てからだ。ノラやクルを親身に思うようになった。

タイトルになっている「猫の耳の秋風」は愛猫クルへのせつない愛があふれていて涙が出そうになった。それと同時になんともエエカゲンとしかいいようのないお話もあって笑える。
先生が奥さんを「アビシニア国女王」と呼んでいる一編もある。タイトルも「アビシニア国女王」である。最後は哀愁漂う一編。
【なにげなく「アビシニア国」で検索したら1ページ目は内田百閒がずらりと出てきた。その他にこんなのがあった。大阪時事新報の1925年の記事「アビシニア王国 (上・下)」。(データ作成:2005.2 神戸大学附属図書館)】

狸を騙した話もおもしろかった。
話のおもしろさもあるけど、語り口のおもしろさがなんともいえない。
小型でしゃれた装丁で12冊出ているようだ。わたしはこれ1冊しか持ってない。全集を買ったような気がするのだがどこへ行ったやら。青空文庫には入っていない。
(六興愛蔵文庫 内田百閒作品集)

メアリ・バログ『秘密の真珠に』

ロンドンの夜。ドルリー・レーン劇場の芝居が終わって歩いたり馬車だったりと客たちは帰って行く。歩くからと知り合いの馬車を断ったアダム・ケント(リッジウェイ公爵)は暗がりの中にひとりの女性が立っているのを見つけた。客にありつけなかった街娼のようだ。暗い色のマントを着て身じろぎもしない。
彼は一夜の相手をしてもらえるかと問い女はうなづいた。
彼はワーテルローの戦いに参戦して顔から足までからだの片側に走る傷を負った。女はじっと彼を見つめていた。フルールと名乗った女は処女だった。
彼は充分な金を与えて消え去ったが、なぜか女を忘れられない。
「秘密の真珠に」はこんなドラマチックな出だしで物語がはじまる。
読み出すとリッジウェイ公爵の孤独な家庭生活、美しいが冷たい妻に優しく接しようと努力する姿が浮かび上がる。実は弟と妻の間の子である娘パメラを可愛がりパメラも実父だと信じている。

フルールは男爵令嬢だったが両親が早く亡くなり、親戚は世話をせずに冷たくあたる。大嫌いな従兄弟のマシューから求婚されて断るが、結婚しないと生きていけないような仕打ちを受ける。殺人と盗みの罪を巧妙に押し付けられたのだ。
家出したフルールはロンドンへ出たが働き口も推薦者もなく、一文無しになって娼婦になった。最初の客がアダムだった。
アダムの優秀な秘書ホートンは、フルールを探し出す。アダムは彼女を娘パメラの家庭教師に雇う。同じ屋敷に住むことになった二人は惹かれ合いつつも道徳心をもって礼儀正しく振る舞っている。フルールはありがたく思いつつも公爵が恐ろしい。しかしフルールが弾くピアノフォルテに公爵が魅せられ、一緒に馬を走らせているうちにだんだん好意を持つようになる。

そこへ現れたのがフルールの従兄弟マシュー。求婚と逮捕をちらつかせてフルールに迫る。フルールは早朝に屋敷を出て自分の屋敷へ逃げもどる。自分の育った家から逃げないでここで決着をつけよう。

「高慢と偏見」のダーシーさんみたいなアダム・ケント・リッジウェイ公爵は、同じように大きなお屋敷に賢い家政婦がいて、召使いを家族のように気遣う。ロンドンと田舎の屋敷を行き来する社交生活。「ジェーン・エア」のようなちょっと怖いが折り目正しい男性と可憐だけど気丈なヒロイン。映画「ゴスフォード・パーク」の主たちと召使いたちの姿が思い出される屋敷の日常生活。
すごく楽しく読んだ。全体を読んでからいいところを何度も読んだ。好きなんです、ロマンス小説。寝る前に読むとぐっすり眠れる。
(山本やよい訳 原書房 ライムブックス 990円+税)